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今まで読んだ『おじさんエッセイ』だって、私の血肉だったんだ。

令和になり、昭和の価値観が、まるで爽快なオセロのように軒並みひっくり返っている。

昭和生まれの人間としては、耳が痛いやら肩身が狭いやら、ニュースで誰かが炎上するたびにヒヤヒヤする。お気持ちは分からんでもないが、今の世の中、それではいかんのよ…と耳打ちしたくなる。

今を生きる昭和生まれ世代は、とにかく今のポリコレを学び、ついていかねばと必死である。文句ばかり言って世の中についていけない老人にはなりたくないのだ。『ファクトフルネス』によれば、マクロでみれば世の中は確実に良くなっているのだから、昔より文句が減っていなければならない。
今ほど自発的な価値観の転換を学ぶことを押し付けられた時代もあるまいが、そんなことは時代が決めることなのだ。ひと一人が時代のうねりに抗うことなどできようか。

さてそんな悲しき昭和世代の遺物である私だが、昭和、平成、そして令和といろいろなジャンルの本を読み続けていることだけは確かだ。
そして先日の読書会で、ある一冊のエッセイから話題は『おじさんエッセイ』になった。

『おじさんエッセイ』ーー。

そのフレーズが私の脳裏に火花を生じ、導火線を走るが如く思い出が次々に駆け戻ってくる。その時だ、私のなかの『おじさんエッセイヒストリー』の扉が開いたのは。バーン!

ああ、あれも、これも。面白く、笑い声を上げながら何度も読んだエッセイのいくつかが脳裏に立ち上ってくる。あの文体、あの内容。あれ、全部『おじさんエッセイ』以外のなにものでもなかった。

『おじさんエッセイ』とはなにか。
まず、著者が中年男性であること。これは言わずもがな必須である。
そして大切なのは、決して自分の人生に満足していないこと。
順風満帆なイケイケおじさんの書くエッセイなんか面白かろうはずがない。
それよりは健康の不安、社会への様々な不満、あてもない文句、ささやかな喜び、家族の行く末に馳せる想いなど、人生の滋味が書かれているのが望ましいと思う。
金銭や異性に対する欲もほどよく落ち着き、金満ぶったり女性の前で恰好をつけることに照れたり開き直ったりとモジモジしているのも、非常に趣がある。中年になり、ある程度自分を客観視してみたり、過去の栄光や失敗、甘酸っぱい思い出をためつすがめつ味わったり。
こういったエッセイを、『おじさんエッセイ』と勝手に定義したい。

ちなみに、私が読んできた『おじさんエッセイ』の著者を振りかえってみよう。
遠藤周作、妹尾河童、畑正憲、東海林さだお、椎名誠、原田宗典、中島らも、伊丹十三、井上ひさし、夏目房之介、泉麻人、村上春樹。まだまだいたはずなのだが思い出せない。皆さんそうそうたる立派なおじさんたちだ。


私の読んできた『おじさんエッセイ』は、書き下ろしの作品は少ないように思う。週刊誌などの雑誌の連載をまとめたものが多かったように記憶している。
ネットがまだこれほど普及していなかった時代、流行最先端の情報は、雑誌の専門分野だった。雑誌にエッセイを連載するということは、その筆者は時代の移り変わりを敏感に察知し、文章にしていたということだ。その時期ごとに旬な話題も多く取りいれており、当時の社会の匂いをものすごく濃く記してある。

いま思い返せば、どれもこれも今のポリコレに鑑みるとNGなことが多く書いてあったように思う。しかしその分、彼らの価値観や、当時の社会での許容範囲がはっきりと分かるのも特徴だ。
そこには、今みたいにポリコレに配慮し切れ味が鈍ることなく、走りまくっているおじさんたちの筆が冴え冴えと活写されている。そして、頭に浮かぶ「今の時代では絶対ありえないな」という感情さえ無視しまえば、読みものとして単純に愉快痛快。話の上手いおじさんが書くエッセイは、とても面白いものだった。

誤解なきよう書き添えておくが、「昔はのんびりして良かった」という 単純な話ではない。確かに昔は今と違っておおらかな印象があるが、それはただ「多くの人が声をあげ(られ)なかった」「声を上げてもうけとめられなかった」結果、他人を黙らせる力のある階層が他の弱者に遠慮会釈なくのうのうと生きていただけだ。もしくは、そんな構造に疑問を持つことすら思いつかなかったというか許容されていなかったというか。

昭和・平成の『おじさんエッセイ』を読むとき、どこまでを面白い読みものとして享受し、どこからを古い価値観として批判的な目を向けるか。そのリテラシーが求められる時代になったようだ。

中学生からおじさんエッセイを読んでいた私には、当時おじさんの生態にピンとくることは少なかったが、「父親はこんなことを考えて生きているのだろうか」などとぼんやり親の人生の機微に思いを馳せたりした。

最近はあまり『おじさんエッセイ』を手に取っていないような気がする。 昔の、野放図に駅弁に文句を言ったり、町で見かけた輩をくさしたり、のびのびとエッセイを綴っていたおじさんたちという人種はどこへ行ったのだろうか?元気のないジャンルなのだろうか。後継者となるおじさんは連綿と育っているのだろうか。まさか絶滅危惧種か。心配が募る。

いや、いま若手の作家だって、いずれはおじさんだ。(ジェンダーの縛りが無くなった現代なら、女性だっておじさんエッセイを書くかも知れない。おじさん、おばさんという言葉だって消滅するかもしれない。)

社会の価値観の基盤ががグワッと音を立ててひっくり返っている、令和の時代を生きている若手作家がおじさんになった時、どのような『おじさんエッセイ』を生み出すのだろう。そして彼らの『おじさんエッセイ』を読んで、私は何を思うのだろう。私は今から、彼らのおじさんエッセイを心待ちにしている。早く、早くおじさんになってくれ。私をはじめとする『おじさんエッセイ』ファンのために。



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