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思いがけずバズった時に感じたこと

Twitterでバズった体験談を読んだことはあるのだが、よもや自分が体験することになるとは思っていなかった。
こんなことは一生に一度の出来事だと思うので、その時の諸々を覚えている限り記録して、私がこの体験で得たビタイチ役に立たない知見をあなたと共有したい。ぜひ。
要はバズって浮かれているのだ。自覚はある。


最初は単なるウケ狙い

事の発端は、読書垢界隈であるあるを言ってみた、その程度の軽い気持ちのツイートだ。ウケを狙いたがるのは関西人の血に他ならない。

相互フォローをしている人、いつメン、見たことある人にウケているなぁ、と喜んでいたら、「ん…?」。いつもなら打ち止めになる頃のいいね数を通り越している。読書垢界隈であんまり見ない数字かも。

それを見ている間にも、だんだんと加速度的に数字が跳ね上がっていった。1000いいねに届きそうになって、「わぁ嬉しいな!読書垢は広いなぁ!」という感じだった。無邪気だったあの頃。

通知が止まらない

いわゆるバズった人の体験談でよく聞く「通知が止まらない」。
これはホントにホントに止まらなくて、「止まらないっていうのはずっと動き続けているということなんですね…」となぜか小泉進次郎構文で感じた。

見ている間に数字がどんどん変化していく。数字が指数関数グラフのように伸びていく。

コレ知ってるぞ、『ファクトフルネス』や『統計学が最強の学問である』、その他の疫学や統計学の本を読んだりしたときに見たグラフの動きだ。

…ということは、おそらくここからさらに加速度的に伸びるのだな。そんな心の準備をしようとするのだが、頭で分かっていても心がついてこない。動悸がすごくて、頭の中は霞がかかったようにフワフワする。

この世にこんなにたくさんの人間がTwitterやってるんや…現実感が薄れるあたりで思い出す、自分のツイートの内容。こんな下らないつぶやきが、こんな沢山の人に広がることあるんや…と呆然。

見て下さってありがとう、共感して下さってありがとう、の感謝の気持ち。そして、圧倒的な数、数、数。
炎上じゃなくて良かった…でも、誰かが何かの不備を指摘して、そこから一気に炎上したら…?足元から這い上がってくる恐怖。心臓がバクバクする。

目を反らせば、見なければいいだけの話なのに。分かってはいるのに、見てしまう。誰か、何か批判的な声を上げてはいまいか。

依存症患者の気持ちが少し分かる。現実に戻るには、接点を絶てば良いのだ。だけどちょっと確認を、と手を伸ばしてしまう。自分で自分のコントロールが効かない。通知を見るのも怖い、見ないのも怖い。

とりあえずググる

数千いいねがついたあたりでググってみた。「Twitter バズる 基準」。

自分のアカウントに巻き起こっている数字の爆増にパニックになる前に知っておくべきだと思った。匿名のTwitterでは相談する相手もいない。

これはいわゆるバズったということなのだろうか。「バズる」ってなんだ。言語化された明確な定義を求めて私はGoogle に尋ねた。

とあるTwitterマーケティングの専門家によると、どうやら「バズる」の基準は「3日以内に1万リツイート、1万いいね」が基準のようである。
おお、どうやら自分のはプチバズと言われる状態のようだな。少し残念のような、ホッとしたような。

そのあとに続く「バズった後の対応」指南を読み、また愕然とする。

やれ過去のマズいツイートを消せだの、宣伝をしろだの、固定ツイートやプロフィールを見直せだの。

なんだ?自分はもしかしてヤバいのか?過去を抹消してクリーンにアピールせねば炎上不可避なのか?

いやいや、単なる一般人のツイートで、そんな大変なことにはならないでしょう。そうは思うものの、何があるか分からないのが世の中。 

ここで参考にしたTwitterマーケティングの記事は、残念ながら私の不安に寄り添ってくれるものではなく、相談窓口へのリンクを眼前に突き付けてくるのみであった。


加速度的に増えてゆく数字


人間の恐怖の根源というのは「未知なるもの」だという。
それが本当なら、私は真の恐怖の中にいたのではないだろうか。

今まさに、滅多に起こらない出来事のさなかにいるのだ、という実感と、この圧倒的に加速度的に増えていく数。未知の出来事に原始的におののいている。

「万バズってどんな感じやろ」とのんきに思っていたのは過去の話。ほんとに通知が止まらないんだな。スマホの電池の減りも爆速だ。

「読んで知っていたこと」を追体験する。実際の体験と読んで知る事はやはり違う。そんな単純なことを、身をもって知った。

同じことをグルグルと述べているようだが、ほんとに同じようなことをグルグルと考えていた。落ち着け、と自分に言い聞かせているが、これっぽっちも落ち着いていられないのだ。

通知を見るたびに数字が変わっていて驚き目をそらし、家人と一言二言交わしてからふと見返すと1000とか2000の単位で数字が増えていく。冷静になろうとするのだが、頭の芯が相変わらず熱い。

これがドーパミンか。すごいなドーパミン。

日本時間の朝と夜、ツイートの伸びのスピードにもけっこうな変化があるということがわかった。これも新たな知見を得た貴重な経験であると言えよう。


「わかりみ」の大合唱

今考えればやりすぎだったかと思うのだが、リプや引リツにできるだけタイムリーに丁寧に反応していた。あれは「こんなちっぽけなアカウントに構ってくれてありがとう」の気持ちだ。
フォロワーが少なくても、読了ツイートが少なくても、そんなに卑屈になることはなかったな。でも沢山の人がツイートに共感を表明してくれたことは、純粋に嬉しかったのだ。

対応できなかったこともある

「書いてあることを読めない人」「読めたと思っていても分かっていない人」と言うのは確実に存在する。
そのことは、『AI vs.教科書が読めない子どもたち』と『AIに負けない子供を育てる』、『ケーキの切れない非行少年たち』などの本を読んで予習済みである。

そういう人からナナメ方向の反応がある。それだけ沢山の人の目に触れたのだな、と感慨深いものがあるが、これはなかなか厄介だ。

思わぬ方向からお越しの方には、申し訳ないけれど反応しない。というかできない。反応をどのように曲解するかが分からないからだ。

まさかあのツイートを、「人の楽しみに年齢制限を設けて区切るなんてけしからん」と返してくるとは。お前の目は何を読んでどう理解したのだ。

私の文章力が低いのは謝ろう。言い逃れのしようもない。
140字の制限があるのもネックだったかもしれない。
しかし書いていないことに文句をつけられても、こちらとしてもあっけにとられるだけである。そんなことは一言も呟いていないのだ。

それから、クソリプは確実に精神力を削る、という知見もしたくないのに体得した。


著名人たちに思いを馳せる

改めて、ものすごい数を相手にしている著名人たちの心臓の強さに感嘆する。すごいなぁ。
私のツイートはおおむね平和的なものだったが、これがもし炎上だったとしたら、しかも日本に居たとしたら、私は見知らぬ誰かから悪意を向けられるという恐怖に、外出することすらままならなかっただろう。

万バズを連発する著名人たちは、平和なツイートにせよ大炎上ツイートにせよ、何十万という人が胸の内に抱えた「ご意見」に囲まれて日常を送っているのだ。

腹が据わっていなければできないことなのだな、と得心が行く。


匿名性ならではの齟齬が生まれる

若者からはガチの老人と思われたのか『ジジイの説教』『自分にできないことを他人に押し付けるな』『老人はできない言い訳ばかりしているからできない』『筋トレしろ』などの反応があったようだ。

申し訳ないが、あなたたちがイメージしている人物と私はだいぶ違うのではないかと思っている。お年寄りだと思うのなら、なおさらそんな言葉づかいをするものではない。

あと、筋トレで老眼が治ると思うなバカタレ、とだけ伝えておきたい。

また、人生の大先輩であるご年配の方からは、なんとも返信しにくいリプが届くのでそっといいねを押す。ごめんなさい諸先輩方、まだあなたの境地に達していないんです、でもいつか、の気持ちを添えて。

こんな平和な内容のツイートでも万人にいい顔はできないということを思い知る。


得体の知れぬ人たちとの世界

通知にものすごい勢いで流れゆく様々なアカウントさんたちを眺めていると、ほんとにいろんなところにいろんな人がいるなぁと感心する。
感想が小学生のようで自分でも情けなさの極みだが、まさかと思うような界隈の方たちから反応を頂き、改めて世の中の広さと複雑怪奇さに感じ入る。

私の知らない世界は私のすぐそばにあったのだ。世の中の解像度が少し上がった。同時に、理解できない人たちと隣り合わせで生きているというこの世の中に、漠然とした恐怖も感じた。

誰もアレを言ってくれない。

バズったときにお友達が「おまえ有名人じゃん w」っていうやつ、誰も言ってくれなくて、夏。


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