爪を切る
世界が大きく狂ったこのご時世に、俺の人生にも大きな転機が訪れた。
3年付き合った彼女と同棲が始まった。
俺の住んでいたアパートの更新が迫ってきていたのと、彼女の仕事が減って金銭面で不安が出てきたことが大きな後押しとなった。
同棲しようか、と俺が話した時に、彼女は笑顔でうなづいた後に、少し寂しそうな顔をしていた。
「わたしは、こんなことにならなくても一緒に住みたかったけどね」
そうやって小さくつぶやいたときに、俺の心臓にとげが刺さった。
彼女から「友達が結婚した」「職場の人が産休に入った」などという話をする時の彼女の表情は、いつもなにか言いたげだった。
付き合い初めた時に意識していなかった「それ」を、彼女はだんだんと意識して、俺は覚悟ができず目を背けていたからだ。
同棲をし始めて半年がたった時だった。二人で選んだソファで晩酌をしていた時だった。
「ねえ、爪伸びてるよ」
冷蔵庫から缶チューハイを取り出した彼女が隣に座ったときに、突然言ってきた。
「ああ、確かに。最近切るの忘れてたかも。」
「わたし、切ってあげるよ。ちょっと待ってて」
缶チューハイを一口飲んだ彼女は、立ち上がって爪切りを用意しだした。
「珍しいね、仕事以外で人の爪触りたくないって言ってたのに。」
「まあ、そんな爪見てたら気になるよ、職業病かな。最近お客さん少ないし。」
少し緩んだ表情になった彼女が爪切りをもって隣に座った。
「それでは、始めさせていただきます。宜しくお願い致します。」
「……はい。よろしくお願いします。」
仕事で言うであろうセリフを言った後に彼女は笑っていた。俺もつられて笑った。
彼女が俺の指を持ち、爪切りのぱちんぱちんという音が聞こえてきた。
指から伝わってくる彼女の体温が、俺に移ってくるように思えた。
最近、こんな風に彼女と真正面から向き合って、過ごしたことがあっただろうか。
俺だって、彼女が望んでいることを意識していないわけではないし、同棲しようといった時点である程度の覚悟はできていた。それでもまだ、踏み切れないなにかがあった。
ご時世を理由に2人でろくに外出できてないし、休みもずっとすれ違いだし、彼女の休みに俺の仕事で家の中で気を遣わせてしまうこともあった。ずっと、彼女に対して覚悟しきれていない自分で、正面から向き合うことができていなかった。
「はい。おわったよ。」
彼女はぶっきらぼうに言いながらまた笑った。爪切りをテーブルに置いて水滴だらけの缶チューハイを飲んでいた。
「…ありがとう。」
きれいに整えられた自分の爪を見ながらつぶやいた。
「どういたしまして。」
彼女はそう言いながら穏やかに微笑んでいた。
「……いいな。」
「え?なんか言った?」
「いや、別に。」
まともに答えないで缶ビールを飲む俺を見ながら、彼女は変なの。と言いながら缶チューハイを飲んでいた。
いつか、彼女にそれを伝える時まで、俺の心の中だけにしまっておこう。
その日も、いつものように二人で晩酌をしていた。
お互いの仕事の話をしたり、次の休みに出かける場所の話をしたりと、他愛のない会話をしていた。
ふと、彼女の手が目に入った。きれいに整えられた爪を見て、あの時のことを思い出した。なぜだかわからないが、俺の中でいまあの時の言葉を伝える時なんだと思った。
よし、と心の中で呟いて、俺は彼女のことを見つめた。
「ねえ、また爪切ってよ。」
「……え、どうしたの急に。」
少し表情が硬くなった俺を見て、彼女は少し困惑していた。
「いいからいいから。ちょっと待ってて。」
俺はソファから立ち上がって机の引き出しを開けた。
彼女に背中を向けながら、俺は引き出しの奥底にしまい込んだ小さな箱を取り出した。
きっと、彼女は今じゃない、と怒るだろうか。しっかり整えた言葉を期待しているのだろうか。
「ねえ、爪切りそっちに入ってないよ。」
彼女は俺の背中に向かって言った。そりゃあそうだ。爪切りなんて最初から探していないんだから。
くるりと彼女の方を向いた俺は、小さい箱を背中に隠しながら彼女の隣へ戻った。
「俺、この前思ったんだ。……こういう時間がずっと続ければいいな、って。」
「……うん?」
不思議そうな顔をする彼女の前に、小さい箱を差し出した。それを見て彼女は何かを察したようで、はっとした表情をしていた。
「結婚してください。」
彼女は、俺の言葉を聞いてすこしうつむいて、顔を上げなかった。いま、彼女はどんな表情をしているのだろうか。心臓がばくばくして落ち着かなかった。
「……はい。」
そういいながら顔を上げた彼女は、目がうるんでいた。
「…ずっと、言ってくれるの待ってた。」
彼女はそういって涙をぬぐった。ふと彼女と目が合って、お互い気が抜けたように微笑みあっていた。
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