青春18きっぷで行く山陽山陰旅行記2日目/2泊3日

【2日目:2020年8月30日(日)】

朝6時、目覚ましで目が覚める。既に外は明るい。正味6時間寝たかどうかだが、宿に長居するのも性に合わないので、フロントでサービスのどら焼きと缶コーヒーを受け取って駅へと向かう。

米子には夜に着いて早朝に出るというパターンが多い。駅前にホテルも飯屋も充実しているから旅の拠点としては申し分ない町だが、これだけ山陰に来ているのに山陰の中心都市については夜の顔しか知らないというのは申し訳ないような気がする。米子に近く山陰の熱海とも呼ばれる皆生温泉も、楽天トラベルで米子の宿を物色する際に眺めるぐらいでついぞ縁がない。名古屋からちょうど鈍行で一日圏にあり、宿や飲食店が充実していて旅の拠点として優秀な街である米子・松山・新潟などは得てしてこういうことが起きがちで、この中では松山だけはついに先月半日使って一通り観光した。しかしこんなことを言っては米子の人に怒られそうだが、米子はまずどこを観光したらいいかわからないからこの調子ではいつになるかわからぬ。まだ隣の安来の方が足立美術館や、たたら場製鉄、月山富田城跡など名所が多いようにも思う。

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米子の駅舎は4階建てぐらいでくすんだ色をした幅の広い建物で、いかにも国鉄臭のする武骨な外観が特徴的だが、これが来月にリニューアルされるようで、改札口の周辺には別れを惜しむ言葉の綴られたボードの類いが散見される。新潟駅の万代口も似たような建築だが、あれも今年リニューアルされるはずであるから、この手の駅舎はそろそろ代替わりの時期なのかもしれない。

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2両編成の6時42分発のアクアライナー益田行きは米子駅の4番線ホームから定刻通りに発車した。日曜の早朝ということもあって車内は空いており、座席は2割も埋まっていない。

米子を出ると次の安来からはもう島根に入る。島根は出雲大社をはじめとする神話の国である。だからといって他所とそう違うわけでもあるまいが、ただの田園風景でもなんとなく神寂びた雰囲気を感じる。

列車が安来を発車しようとすると、跨線橋の向こうを女の子が駆けてくる。女性車掌は遠くを仰ぎながらその子を待っている。山陰本線は幹線だが、こういうところは間違いなくローカル線である。

東松江を過ぎると、列車は中海と宍道湖を結ぶ大橋川に沿って走り、水郷と謳われる松江の街へと入っていく。松江も10年前に松江城を訪れて以来あまり観光した覚えのない街であるが、宍道湖に面した落ち着いた町だったような気がする。一度桜の季節にでも松江城の堀を屋形船で巡ってみたいとも思う。

玉造温泉を過ぎたあたりで一両編成の気動車とすれ違った。これは松江まで乗り入れる木次線の列車だが、編成が短い列車同士だとすれ違いも一瞬で、これもまた味がある。松江から宍道にかけては山陰本線の中でももっとも多彩な列車が走る区間で、山陰本線の主役である赤銅色のキハ40系や、アクアライナー等に使われるキハ121系といった気動車鈍行、スーパーおき、まつかぜといった気動車特急はもとより、木次線乗り入れのキハ120系、電化区間を走る出雲市止まりの115系電車鈍行ややくもといった電車特急、そして寝台特急サンライズ出雲までいるから、あまり車両には詳しくない私でもすれ違う列車を眺めているだけで面白い。

8時3分出雲市着。隣のホームにはくすんだ色の車両の多い山陰では珍しい、爽やかな青と白の車両が泊まっている。これは木次線に乗り入れる8時45分発の奥出雲おろち号で、出雲市から備後落合までの100km弱を4時間かけてゆっくり走るトロッコ列車である。この列車にもまだ乗ったことがないから少し気になるが、次回以降の楽しみにとっておくことにする。

出雲市を過ぎると車窓が一気に鄙びてきて、民家の屋根瓦に赤褐色のものが増える。これは石見の石州瓦で、これを見ると山陰の奥の方に来たなぁと思う。田儀を過ぎるあたりからは右手に日本海が広がり、これが益田まで続く。山陰本線の白眉と言ってよい区間である。

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江津で上り特急との行き違い待ちのため7分停車する。2年前までは三江線との接続駅であったが、ホームにはもうその痕跡は認められない。三江線が健在だった頃はその上り一番列車に乗るために浜田や江津に鉄道ファンがよく泊まっていたという。それぐらいの用でなければなかなか下車することもなさそうな駅であるが、そんな江津駅の改札には「赤瓦の町 江津にようこそ」との看板が掲げられている。列車から眺めたところ、江津の瓦は黒と赤が半々ぐらいであった。

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9時43分石見の中心都市浜田着。私は益田には何度も泊まっているが、浜田では降りたことすらない。これは益田に泊まると旅程が組みやすいからに他ならないが、浜田をないがしろにしているようでこれまで心苦しかった。ちょうど先日、司馬遼太郎の「花神」を読み終えたが、その作中でも浜田城が出てきたことでもあるし、立ち寄ってみることにする。但し「花神」の主人公は長州藩の大村益次郎であり、浜田城は大村益次郎率いる長州軍に陥落させられた城であるから、「花神」もあまり良い扱いを受けていないかもしれない。なにしろ会津には未だに長州人に対し良い感情を持たない人もいるというし、会津ほどではないにしても下手なことは口に出さないに限る。

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浜田の駅前で自転車を借り、市街地を走り抜けながら城跡へと向かう。浜田市は人口5万、地方都市のご多分に漏れず駅前商店街は壊滅しかけているように見える。しかし江津までの幹線バスは毎時2本程度と比較的頻繁に走っているほか、広島までの高速バスが1日16往復、大阪への直通バスも3往復もあるから石見の中核なのは間違いなく、郊外のロードサイドに街の中心が移ったに過ぎないのだろう。

10分ほどで浜田城跡に着く。浜田城は標高68mの丘に築かれた城で、幕末の長州征伐にて石州口で幕府軍が敗れた後、城を捨てる際に藩兵が火を放ってしまったから今は石垣ぐらいしか残っていない。その城跡の公園には各所に設置されたベンチには、この暑いのに老人が何人もおり読書等に励んでいる。先ほど通りかかった看板に「浜田城案内します(無料) ご希望の方は××まで」とあったから、そのために待機しているのかもしれぬ。といってこちらから声をかけるのもやや憚られる。

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本丸まで登ると、かつて北前船交易で栄えたという外ノ浦が見渡せる。かつての長州藩との戦のおり、長州側は石州口に回せる軍艦が無かったというが、仮にあったら海上からの砲撃で陥落していたのではないか。

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本丸から下ってくると、果たして折り畳みの椅子に座っていた老人にどこから来たのかと尋ねられた。愛知から来たと答えるとこの老人、犬山城にも岡崎城にも行ったことがあるというから随分歴史に詳しそうである。こうなればええいままよとばかり「司馬遼太郎の花神を読んで来たのだ」と言うと予想に反して老人はたいそう喜び、最後の激戦地だという大麻山や麓の資料館について紹介してくれたのち、司馬遼太郎の残した「浜田藩追懐の碑」へと案内された。

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老人は碑の前で「長州に負けて中央集権になり、人材は東京へと去って石見には何もなくなってしまった。地方にリーダーがいなくなってしまったことが現況に繋がっている」と語り「石見の誇りはこの碑の最初の二文、それだけです」と自嘲気味に笑ってみせた。

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11時45分発の鈍行で浜田から更に45分ほど西に行くと益田で、ここで津和野・新山口方面へと向かう山口線と接続する。当初の予定ではこのまはま13時11分発の山陰本線の長門市行きに乗り継ぎ、川棚温泉か下関で瓦そばでも食べるつもりであった。しかし朝方に出雲市駅で奥出雲おろち号を見て気が変わった。空いている今のうちに、普段は混むであろう人気の観光列車に乗っておくのも良いと思ったのである。この近くで観光列車といえば、まず挙がるのが「SLやまぐち号」であろう。これは国鉄におけるSL動態保存列車の走りとも言うべき列車で、1979年以来かれこれ40年にわたり主に土休日に新山口と津和野の間を一往復している人気列車である。津和野発の上りのSLは15時45分発だから、益田を13時6分に出る特急スーパーおきを使えば津和野で2時間ほどの観光したうえで乗り継ぐことができる。青春18きっぷでは特急には乗れないから、できれば鈍行に乗りたいところではあるが、山口線は列車の本数が少なく、この特急の次は16時15分発の鈍行で、これでは当然間に合わない。

津和野までの乗車券と特急券代1350円を支払って2両編成の特急スーパーおきに乗り込んだが車内はガラガラで、乗車率は10%そこそこであった。盆地を縫うように30分ほど走り、天文台で有名な日原を経て13時37分津和野着。

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津和野は亀井家4万3000石の城下町で、石州赤瓦の家々の合間に張り巡らされた水路のある街並みが美しく、小京都とも呼ばれている。森鴎外や西周の出身地でもあり、彼らが学んだという藩校の養老館も現存している。駅から鯉の泳ぐ水路に沿って殿町通りを行って帰ってくるだけなら1時間もあれば十分なぐらいの小さな町だが、どことなく気品があり、好きな街である。

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ところで、私はこの小京都という愛称があまり好きではない。江戸期の街並みが残る場所をだいたいこう呼んでいる印象だが、そもそも京都自体そこまで古民家ばかりの街というわけでもないし、たったそれだけの要素のために「京都」という一様なレッテルを貼り付けてしまうのは、その街の個性をないがしろにしているようでどうにも気分が悪い。この津和野にしても小京都云々というけれど津和野は津和野であり、石州瓦と鯉の泳ぐ水路のある、風雅でありながらちょっと田舎くさいこの街並みは、京都とはまた別の魅力をもつものである。そういう土地独自の魅力をもっと押し出していけばいいと思う。それに旅行者にとってもどこもかしかも「小京都」では面白くない。

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1時間ほどで津和野の街を一回りし、汽笛の音も聞こえるようになってきたので駅前に戻ってきてみると、既に多くの観光客が改札の前に集まっている。見たところ100人近くはいそうだが、客車を5両も繋いでいることを考えるとあまり乗車率は芳しくなさそうである。もっとも今回はそれを見越して来たので、予想が当たって嬉しくはある。

茶色い5両の客車がC57機関車に引かれて入線してくる。これはやまぐち号のために2017年に新造された35系客車で、最新技術を詰め込みながらも国鉄時代の客車に外観を似せて造られたものだという。扉は自動ドアで、照明はLED、座席にはコンセントもついており、設備としては申し分ないし、それでいてレトロさを感じさせる内装と両立しているから乗っていて実に楽しい車両である。こんな列車に18きっぷに指定券の530円を足しただけの料金で、しかもボックスシートをまるまる1つ1人で占領して乗ることができるのだから幸福なことである。元々津和野駅はもう片方の出発駅である新山口駅と比べて空いているうえに、今日はそれに輪をかけて人が少ないから、出発前の撮影も快適に行えた。予定を変更してこちらに来て本当によかったと思う。

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定刻14時45分、貴婦人とも呼ばれたC57の「ピョォーー」という汽笛が津和野の街に響き渡り、続いてごくゆっくりと車両が動き始めた。SLは走っている姿を外から眺めるのが一番好きだが、乗るのであれば発車の瞬間が好みである。甲高い長く物悲しげな汽笛を鳴らし、ゆっくりガッタンゴットンと走り出す、その音と振動を車内で感じていると得も言われぬ感動を覚える。一時代前に一旦は役目を終えて姿を消し、今は興業のために各地で細々と生き長らえているSLという存在の物悲しさを感じるためか、かつての鉄道の栄光の時代に思いを馳せてしまうためか、自分の感情にも整理がつかないが、とにかくこの感覚は他では得られない。

列車は駅を出るとしばらく津和野の街の中を走るが、沿線の至るところに大仰なカメラを構えた鉄道ファンとも写真ファンともつかぬ人々がスタンバっている。それに加えて街の人々がSLに向けて随所で手を振ってくれる。石州赤瓦の街並みの上を蒸気の煙が流れて行く。

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しばらく街の中を走り街外れに出ると、列車は街と山の境のようなところをカーブしながら徐々に峠へと駆け上がって行く。ここが山口線の車窓の白眉で、特に下り列車が峠から下って津和野の街へとカーブしながら降りていくところは全国の車窓でも上位に入ると確信しているが、上りでも十分楽しい。津和野の街はこのあたりから眺めるのがもっとも美しい。これだけのために進行方向右側の座席を取った甲斐があったと思う。

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峠を上りきると白井トンネルに入り、これを抜けると山口県である。上り勾配を抜けた汽車は徳佐盆地を快調に飛ばして行く。計ってみると精々時速60km/hそこそこだが、機関の音と振動がそれ以上の早さに感じさせる。徳佐はりんごの栽培地の南限にあたる地で、沿線にはりんご園が展開している。農夫も畑から手を振ってくれる。

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このあたりでも撮影者が至るところにいる。今ではSLが走るところも限られるから、そこに撮影者が集まるのも自然ではあるが、3-11月のシーズン中ほぼ毎週運行しているのも関わらずこれだけの撮影客がいるのだからSLやまぐちの人気は群を抜いている。車で来るにしろ鉄道で来るにしろ、大都市圏から山口にやってくるだけでも大変だし、これだけでかなりの経済効果を上げているのではないかと推察される。元々観光客の集まる長門峡ではとりわけ撮影者が多く、50人はいたと思われる。

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徳佐盆地もご多分に漏れず平凡な盆地の車窓であるが、SLに乗っているとそんな景色からでも旅情がおおいに涌き出てくるのだから、旅情というのも現金なものである。といってもこれはSLが我々の日常から大きく逸脱しているものだからで、実際にSLが現役だった頃に生きていればこんな感傷も抱かなかったであろう。そんな物思いに耽っていると、三谷で下りの鈍行列車とすれ違う。慌てて降りてきてスマホのカメラを構える乗客がいる。

仁保を過ぎると徳佐盆地尽きて列車は再び山あいの区間に突入する。トンネルに入る前に窓を閉めるように車掌が注意して回っている。SLが現役だった頃は注意などされる前に乗客が率先して窓を閉めていたというが、SLが消えてから生まれたような世代にはその感覚はない。

盆地を下って宮野を過ぎると一気に沿線に住宅が増え、山口の市街地に入ったな、と思う。このあたりにくると撮影客は姿を消すが、相変わらず沿線の住民は列車に向かって手を振ってくれる。こうやって歓迎を受けていると気分も良くなってくるもので、これもSLやまぐち号の人気に一役買っているのではないかと思う。

最後の停車駅である湯田温泉を出ると、C57は最後だから出血大サービスだとばかりにさかんに汽笛を鳴らしながら山口市街を駆け抜けて行く。定刻17時30分、終点の新山口着。60kmあまりに1時間45分かかっているから大変な鈍足だが、それが全く気にならないぐらいに楽しいひとときであった。

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ところで、今日の晩飯と宿はどこにしようかと思う。明日の帰途を考えるなら今日少しでも東に移動しておくべきだが、私は逆方向の下関方面に向かった。今回の旅の最初のモチベーションは下関か川棚温泉で瓦そばを食べてみたいというものであったから、その欲望に忠実になることにしたわけである。

新山口から3分の乗り継ぎで下関行きに乗り継ぐ。先頭車両の運転席の後ろに少年が張り付いて、スマホを片手になにか作業をしている。既に夕方であり、列車は沈み行く夕日に向かって走っている。対向列車とのすれ違いざまに列車が警笛を鳴らし、直後に少年が歓声をあげる。どうやら作業は録音に関わるもので、今の警笛が上手に録音できたようである。

精々30分ぐらいで着くだろう、と軽い気持ちで新山口から下関へと向かったのだが、実はこの間は60kmほどもある。新山口は山口県の真ん中より西側に位置し、下関は西の端なのだが、その移動には鈍行で1時間を要した。これが東西に長い山口県の恐ろしいところで、同じく東西に長い県としては静岡県が有名だが、あちらは何十回も通っているからこんな勘違いは起こさない。まだまだ日本地図が頭に入っていないな、と反省せざるを得ない。

18時30分、新下関で下車。夕日を仰ぎながら飲食店の立ち並ぶ国道沿いを20分ほど歩き、関西のショッピングセンターの雄・ゆめタウン内に出店している瓦そば屋たかせに向かった。

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「逃げ恥」以来気になっていた瓦そばは、ドラマで見た通りに瓦の上に茶そばが盛り付けられ、時間が経つごとにそばが瓦で熱せられて焼きそばに近い食感になっていくことでその変化が楽しめるというもので、見た目は奇抜だが味は普通に美味かった。

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瓦そばといえばここ、というぐらいの有名店ではあるけれど、それなりに客は入っているものの隣のもつ鍋屋は入店待ちの列ができているところを見ると地元客はあまり瓦そばなど食べないのだろう。膨れた腹で来た道を引き返し、その晩は新山口と新下関の中間の厚狭に泊まった。

2日目



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