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ゼロベースになったら、そこには愛しかなかった

私、今、白血病で無菌室に入っていて、抗がん剤治療してるんですが幸せなんです。強がりとかではなくて。

去年の12月23日に彼氏から突然LINEで別れを切り出されまして、去年のクリスマスは健康で元気で自由だったけど不幸せでした。クリスマスイブは一人暮らしの部屋にまっすぐ帰るのが嫌で(多分泣き暮らすから)、スタバで読書してから帰りました(ちなみにそこで読書した本の内容は大変有益でした)。心が弱っていたので、歩く速度もゆっくりで、ふとした時に涙がこぼれる日々を送っていました。

今年はクリスマスのひと月前に、軽い気持ちで受けた血液検査から突然に急性骨髄性白血病と診断されて即日入院、翌々日から抗がん剤治療となりました。無菌室から一歩も出られない、突然のシャットアウトです。

今、第1クールの寛解導入療法を終えようとしている段階です。突然の外界遮断からひと月。これから第2クール、第3クールの抗がん剤治療、そして骨髄移植とまだまだ治療は続きます。傍から見ると幸せとは程遠い状態ですが、私、幸せ感じてます。人の幸福度って傍目からでは分からないものですね。

今回のことで、人はゼロベースになったら愛しか感じないんだなと思いました。私が今感じているものをもっと細かく分類するなら、愛と感謝と祈りの力。それしか感じない。

元気な時は、イラつくこともムカつくこともたくさんありました。道ゆく人の歩みが遅いだけで腹が立ったりもしました。職場の同僚や、友人や知人のちょっとした言動に疑問を感じたり、内心ムカついている時もありました。信号に引っかかるだけでクソっと思う日も少なからずありましたし、レジで隣の列がスイスイ進んでるのを見るとチッと思ってました(心せっま!)。

でも今は、みんなのいいところしか見えません。

励ましのメッセージをくれる人、コロナ禍で差し入れ時間も限られていて面会もできないのに足繁く差し入れをしてくれる人、突然のことにも関わらず進んで愛猫を預かってくれる人、遠方から私を気遣って手紙や必要物資を送ってくれる人、神社に行って私のために祈ってきてくれる人、気を遣って何も聞かずにそっとしておいてくれる人(←ちなみに私は聞いてくれる方が嬉しいです)、大変なお仕事なのに笑顔を絶やさない看護師さん、懸命に治療方針を考えてくれているお医者さん、毎日掃除に部屋に来てくれる清掃の人、見ず知らずの土地に住み込んで洗濯や買出しをしてくれる年老いた母、骨髄を提供しようとしてくれている兄(型が合うかどうかはこれから検査)、毎日LINEで俳句を送ってくる初めて一人暮らしをしている父…。数え上げたらキリがないんです。

去年私に突然別れを告げ不幸の元を作った元カレも、病気のことを知って「何できることある?何でも言って」とかわいいニット帽を差し入れしてくれました。

仕事も、たくさんの趣味も、入り組んだ人間関係も、全部一気にパーンと放り出してゼロになったら、周りには愛のある人しかいませんでした。

人は今そこに在るものが見えない、というけれど、私は見えてるつもりでいました。ところがどっこいやっぱり見えてなかったんだな。もっといっぱい、溢れんばかりにあったんだなぁ。余計なもの(その時は余計だとは気づいてないんだけど、しょい込み過ぎていたもの)がなくなると、在るものがまざまざと見えるのであるなぁ。

もちろん深刻な病気なので、不安になる時も恐怖を覚える時もあります。でもそこがベースではない。

今夜はクリスマスイブ。歌声が聞こえるなと思って、無菌室の開かない窓から外を見ると10人くらいのキャンドルを持った人たちがこちらに向かって賛美歌を歌っているではありませんか。嗚呼、美しき哉、この世界。部屋からブンブンと手を振り、ひとり涙ぐみました。人の優しさがダイレクトに身にしみるのです。

逆に言うと、ネガティブな感情をたくさん持てるというのは健康の証なのかもしれません。なのでそれはそれで健康の証としてポジティブに受け止めることもできるのかもしれません。

でも、もったいないよね。在るものを見落としてるのって。

病気が治ってまた元通りの生活が戻ってきても、私はないものよりも在るものを見続けたい。そんなクリスマスイブです。

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