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Official髭男dism『アポトーシス』考察

この記事ではOfficial髭男dismさんの曲『アポトーシス』について考察します.とても美しくて悲しい曲です.私はこの曲で10回以上泣いています.

「アポトーシス」とは

生物学の用語で,あらかじめ予定された細胞死を意味するらしい.例えば葉っぱが枯れて落ちていくのは木におけるアポトーシスである.藤原さんは,2021年7月31日のLANTERN JAM TIMESで,アポトーシスの意味について次のように語っている.

「ここから先の未来に進むために,この細胞は壊れていくべきだ」という判断によって壊れていく細胞.

この言葉から,藤原さんがアポトーシスの「壊れる」というネガティブな側面だけでなく,「未来に進むため」というポジティブな側面にも焦点を当てていることがわかる.


さらに,藤原さんは次のように語っている.

この世界を,この地球を一個の体としたら,そこに生きる者はみんな細胞のように細かくて,必ずみんな世界が循環していく流れの中でいつかは壊れていくことが約束されている.その中で何を思い,生きるのか,ということを描きたかった.

個人的にこの視点には衝撃を受けた.我々をひとつの細胞と見たときに,私たち個人の死は,この世界におけるアポトーシスであるという解釈である.この曲は,世界のスケールと個人のスケールの両方から人の死生観について語る曲なのだ.


藤原さんは続けて次のように語る.

音と言葉で音楽を作って届けるっていうことを生きがいにしたなら,これは絶対に残しておきたい!って思った,自分の「足掻いた,ただの跡」でした.だから「アポトーシス」っていうタイトルだけど,そこに対して何を思うかということで,「こう思ったら大丈夫」とかそういうものはひとつもなかったという,ただもがき苦しみ,ただ悩み,その中でせめて残された人たちと残された時間をどれだけ幸せに生きるかっていうことを考えなきゃ…って言い聞かせるけど,そうは言ってもさっていう…

この曲は死の恐怖を克服するための答えを出す,ということはしない.私たちの死はこの世界におけるアポトーシスであり,未来に進むための判断として予定されているものであると解釈したとき,私たちはどのように生きるべきか,その正解のないように思える問いに対しての「足掻き」なのである.


***


時の流れ,死による別れの恐怖

Aメロから歌詞を見てみよう.

訪れるべき時が来た もしその時は悲しまないでダーリン
こんな話をそろそろ しなくちゃならないほど素敵になったね
恐るるに足る将来に あんまりひどく怯えないでダーリン
そう言った私の方こそ 怖くてたまらないけど

時計の針のような音が聞こえる.「訪れるべき時」は,死による別れを意味しているのだろう.死について語ることを「素敵になった」と表現したアーティストはこれまでいるのだろうか.死について考えなければならないほど長い間,同じ時間を過ごしたということだろう.「素敵になった」と表現する優しさが独特かつ美しい旋律に乗り,幻想的な雰囲気で曲が始まる.

そして「私」は「ダーリン」に怯えないでと言いつつも,別れの時に対して恐怖を感じている.「悲しまないで」「怯えないで」と語る強い「私」は,内面ではひどく怯えているのだ.この外から見た強さと内に潜む弱さを両方持ち合わせているという点が,どうしようもなく人である証なのだ.


「世界の細胞」としての認識

次は,Bメロ.個人的にはここが一番泣ける.

さよならはいつしか 確実に近づく
落ち葉も空と向き合う蝉も 私達と同じ世界を同じ様に生きたの

ここでは一気に現実を突きつけられる.これまで「怖くてたまらない」と言っていた「私」は,この世界の理を冷静に分析する.死は必ず訪れるのだ.さらに,すでに生を終えた「落ち葉」や「空と向き合う(息絶えて地面に落ちた)蝉」にフォーカスし,「私達と同じ世界を同じ様に生きた」と語る.私たち人も葉っぱも蝉も,みんなこの世界の細胞なのだと,私たちもこのように生を終えるのだと,悟るのである.

このパートはあまりにもメロディが美しすぎる.残酷な現実を突きつける歌詞さえ,思わず美しいと感じてしまう.それがなんだか,とても悲しい.


死への焦りによって輝く「生」

いよいよサビだ.

今宵も鐘が鳴る方角は お祭りの後みたいに鎮まり返ってる
なるべく遠くへ行こうと 私達は焦る
似た者同士の街の中 空っぽ同士の胸で今
鼓動を強めて未来へとひた走る
別れの時など 目の端にも映らないように そう言い聞かすように

鐘の音が聞こえる.「鐘」は弔鐘(人の死を悼んで鳴らされる鐘)のことだろうか.「鐘が鳴る方角」は時間の進む先を表し,そのずっと先には鎮まり返った「別れの時」が待ち受けている.私たちはみな同じ「世界の細胞」であり,すべて別れの時が訪れる.その中で,私たちはできるだけ長い時間を生きようと焦り,そして必死に生きているのだ.死に怯える「私」は,ひたむきに生きることが,いつか訪れる死から目を逸らすことができる手段だと信じたいのである.

なるべく遠くへ行こうと焦ったり鼓動を強めたりするのは,「別れの時」があるからだ.私たちは,いつか必ず訪れる死があるからひたむきになれる.死があるからこそ,生が引き立てられるのだ.そして,落ち葉が美しく紅葉したように,空と向き合う蝉が精一杯鳴いたように,「別れの時」の直前は生命の輝きが際立つ.生命が輝いた後,一変して鎮まり返る様子は,まさに「お祭りの後みたい」だ.


人の老化,人工物の退廃

2番のAメロ・Bメロでは,時間の流れによる衰退について取り上げている.

いつの間にやらどこかが 絶えず痛み出しうんざりしてしまうね
ロウソクの増えたケーキも 食べ切れる量は減り続けるし
吹き消した後で包まれた この幸せがいつか終わってしまうなんて
あんまりだって誰彼に 泣き縋りそうになるけど
さよならはいつしか 確実に近づく
校舎も駅も古びれてゆく 私達も同じことだってちゃんと分かっちゃいるよ

人の老化と校舎・駅の退廃を挙げ,そしてそれらが「同じことだ」と語る.この共通化によって,無機物も人と同様に世界の細胞であることが示唆される.1番では生命が世界の細胞であると示唆し,2番で非生命も世界の細胞であると示唆したことにより,この世界に存在する全てが世界の細胞と解釈され,虚しさと共に「私」のアポトーシスはさらに広い概念へと変化する.

「泣き縋りそうになるけど」「分かっちゃいるよ」という表現から,「私」の弱さと強さの葛藤が垣間見える.プログラムされた死として「さよなら」の時を受け入れるのは,機械的で強い解釈だ.しかし「私」は機械にはなりきれない.「私」は感情を持っていて,死に怯える弱い「人」なのだ.人と機械の狭間で揺れている「私」の葛藤が,「私」にとってのアポトーシスを無造作に広げていく.臆病な「私」は,他の生命や非生命と同じなのだと,サビで言うところの「同士」なのだと捉えることで,少しでも安心したいのかもしれない.


世界の流れに逆らえない「私」

2番のサビだ.

今宵も明かりのないリビングで 思い出と不意に出くわしやるせなさを背負い
水を飲み干しシンクに グラスが横たわる
空っぽ同士の胸の中 眠れぬ同士の部屋で今
水滴の付いた命が今日を終える
解説もないまま 次のページをめくる世界に戸惑いながら

過ぎ去った時間は思い出となり,不意に「私」を追い詰める.このやるせなさは,もう戻ってこない思い出の時間と,これから老いていく自分に対してどうすることもできない歯痒さだ.

「水滴の付いた命」は,シンクに横たわったグラスと,「(泣いている?)私」の両方を指しているのだと思う.そして水滴が付いたまま,それが乾くことなく明日が来てしまう.明日がどんな一日になるか,そんな解説は誰もしてくれない.時間は「私」の意志に関係なく流れ続けるのだ.

「次のページをめくる世界」という表現から,やはり主体は世界であり,「私」はそのうちのひとつの細胞に過ぎないのだと再認識させられる.単なる細胞である「私」は,その主体である世界が明日を迎えようとしていることに戸惑いながらも,その流れに従うしかない.


有限の時間,祈りにも似た愛

ラスサビ.

今宵も鐘が鳴る方角は お祭りの後みたいに鎮まり返ってる
焦りを薄め合うように 私達は祈る
似た者同士の街の中 空っぽ同士の腕で今
躊躇いひとつもなくあなたを抱き寄せる
別れの時まで ひと時だって愛しそびれないように そう言い聞かすように

「私」は,自分の意志に関係なく勝手に流れる時間の中で,せめて「別れの時」まで最大限に「あなた」を愛するように自分に言い聞かせる.「私」も「あなた」も予定された死に向かうだけの存在なのだと割り切ってしまうと,その中身は空っぽのように思える.それでも「私」は,空っぽの腕で「あなた」を抱き寄せる.それはまるで,「別れの時」に対する焦りを薄め合う祈りのようだ.もしかしたら,それがこの世界で最も純粋な愛なのかもしれない.


安らかな眠り

訪れるべき時が来た もしその時は悲しまないでダーリン
もう朝になるね やっと少しだけ眠れそうだよ

「私」は,自分自身が葉っぱ・蝉・校舎・駅と同じ世界の細胞であると解釈し,世界におけるアポトーシスとして自身の死を受け入れた.そして未来へとひた走ること,「あなた」を愛しそびれないように抱き寄せることを自分に言い聞かせる.そうやって「私」は,焦りの中を生きていくことを決めたのである.朝まで思い悩むほど「別れの時」は怖いけれど,ひとまず少しだけ眠ることができる.それは「別れの時」にも似た安らかな眠りだ.

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