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②変わらないもの

「珈琲」と書きますが・・・

 「自家焙煎珈琲」「珈琲店〇〇」・・・「Coffee」と書いたり「Cafe」と書いたり様々な書き方があります。
 ウィキペディア様によれば、「コーヒー」はアラビア語でコーヒーを意味するカフワ(アラビア語: قهوة‎:qahwa)が転訛したものだそうです。(カフワは、元々ワインを意味していたと初めて知りました。エチオピアの産地カッファ(Kaffa)という説もあるとか。)
 コーヒーが食し始めたころは、コーヒー豆の部分(タネ)を捨てて果実を煮込んで食べていたようですが、タネが焚火に落ちて香ばしい匂いがして始まったとか、山火事で偶然知ったとか「焙煎」はじまり物語には諸説があります。
 コーヒーの伝播に伴って、トルコ(トルコ語: kahve)、イタリア(イタリア語: caffè)を経由してヨーロッパ(フランス語: café、ドイツ語: Kaffee、英語: coffee)から世界各地へ。日本語の「コーヒー」は、江戸時代にオランダからもたらされた際の、オランダ語: koffie(コーフィー)に由来するそうです。なるほど。
 当て字である「珈琲」は、江戸時代末期の医蘭者・宇田川榕菴(うだがわ ようあん)が考案したそうで、「王様しか飲めないくらい高価で貴重な秘薬」って意味もあるようです。

 ところで、「珈り」って書いて何と読むか分かりますか?

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 「かみかざり」って読むんだそうです。たしかにコーヒーチェリーと髪飾りって似てますね。。

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 「珈」はかんざし、「琲」は玉を連ねた飾りを表しているそうです。
 本当に風流です。

「薬草唐茶」

 日本にコーヒーがもたらされたのは江戸時代で、オランダ人が長崎・出島に持ち込んだそうです。ヨーロッパでコーヒーが広がったのが17世紀初めなので、日本に割と早く伝わったんだなぁと思います。
 文人・狂歌師の太田南畝(なんぽ)/蜀山人という方が、長崎奉行所に勤務していた頃に飲んだコーヒーの感想が、
「紅毛船にてカウヒイというものを勧む。豆を黒く煎りて粉にし、白糖を和したるものなり。焦げ臭くして味ふるに堪えず。」
 ・・・よっぽど苦かったんでしょうね。

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 当時は役人や商人の間で「薬草唐茶」という薬として珍重されていたようです。

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 18世紀末に京都の医師・広川獬(かい)が 著した「長崎聞見録」に
 「かうひいは、蛮人煎飲する豆にて、其形白扁豆(びゃくへんず)の如く。湿り気あるやうのものにて。眞中より離れ。両片となる。其色眞黒に成程に炒りて、日本の茶をのむごとく。常々服するなり。其効稗を運化し。留飲を消し気を降す。よく小便を通じ。胸痺(きょうひ)を快くす。是れを以て。平胃散(へいいさん)。茯苓飲(ぶくりょういん)等に加入して其効あるものなり。」
 ・・・とあり、庶民が口にすることはほとんどありませんでした。

コーヒーウェーブの変遷

 文明開化ととともにコーヒーは少しずつ大衆化しましたが、第2次世界大戦によって輸入が停止・輸入が再開されたのが1950年でした。
 個人経営の喫茶店が次々と開店し喫茶店ブームが起き、使用器具や焙煎や抽出技術の違い・ジャズ喫茶などの個性的なスタイルの「喫茶店」が次々と生まれ、高度成長期とともに趣味にゆっくりと浸るスタイルから商談などに使いやすいスタイルや短時間で気軽に利用できるスタイルに移行しました。

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 コーヒー人気と共にインスタントコーヒーや缶コーヒーが普及し、生活スタイルの変化に伴い手軽にコーヒーを飲みたい層の支持を受けてシェアを伸ばします。コーヒー製品の輸入内訳をみるとインスタントは依然として多いようです。(生豆の輸入量はダントツなので下記資料から除外。)

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 コーヒー豆が大量生産・流通し、廉価で一般的に飲まれるようになった動きで「ファーストウェーブ」と言われています。
 その後、よりおいしく・スタイリッシュな形でコーヒーが普及したのが「セカンドウェーブ」、生産国や生産地の豆にこだわり豆の特徴に応じて焙煎しハンドドリップで丁寧に抽出することでコーヒーの味を追求した「サードウェーブ」ということになります。かつての日本の文化である「喫茶店文化」が逆輸入されてブームになっていることが、とても興味深いです。
 現在はコーヒーハンターが現地農園まで行って吟味したり、「スペシャルティコーヒー」度合いがより詳細になってきておいしさに驚きます。
 次のウェーブは、何が来るのか想像すると楽しいです。

コーヒー文化は変われども

 コーヒーの味は「苦い・香ばしいにおい・まろやかな味・スッキリした苦み・コク・酸味」で、「おいしさ」は
「風味特性・爽やかな明るい酸味特性があり、持続するコーヒー感・甘さの感覚で消えていくこと」
 と言われています。
 ”From seed to cup”(種子からカップまで)といわれるくらい、何よりも大切なのがコーヒー豆(種子)の品質です。

「おいしさ」の構成としては、
 ①品質・・・生豆の素材・鮮度・品質(品質等級や収穫時期)   40%
 ②焙煎技術・・・深煎り・中煎り・浅煎りの度合         30%
 ③抽出方法・・・水質・お湯の温度・豆の挽き具合・お湯の注ぎ方 20%
 ④その他要素・・・精神/肉体的健康・環境や空間・装備や備品  10%

 という具合です。

 「おいしい」は、「風味(味覚・香り・食感)/食べ物・飲み物自体の要素/食べる人の環境」のたし算の結果です。

 「食べる人の環境」について思うことなのですが、リモートでお取り寄せしても精神状態が健康でなければ「おいしい」の要素が欠けませんか?
 ヒトは信頼性のあるコミュニケーションに触れていなければストレスを感じてしまう生き物なのではないかと思うのです。

 京都大学前総長の山極壽一先生の
「視覚・聴覚・嗅覚・ 味覚・触覚という順にリアリティーが薄れていくが,信頼はその逆の方向で厚みが増す。」
 という言葉が強く心に残っています。
 ネットワーク技術によってヒトのコミュニケーションは「視覚・聴覚」で「遠くに、広く、早く」伝わるようになりましたが、「人の繋がり」でみると何となく安っぽくて,信頼しずらく感じます。
 同じ釜の飯を食った仲間の絆は深いですよね。
 「同じ場所・味・においを感じて話を聞き、相手の姿や風景を見る。」
 心理的にも地理的にも近くて「触覚・味覚」を共有できる関係で繋がる機会がどこかに無ければならないと思うのです。
 ネットワークオンリーでは信ある繋がりを維持するのは難しいです。

 そして素材について思うことです。
 効率よく大量に作られ遠く広く届けられるようになって素材本来の姿が置き去りにされてしまっている気がします。
 ものは腐るし、変化するし終わりがあります。
 保存料や配送技術の力で長く遠くに配送できるようになりましたが、ものごとの道理として本来は長く保ったり遠くに行ったり速く走るのにも限界があります。
 それを無理に広げたりしようとするから、身体が違和感を感じて「病気」を発生させているのではないでしょうか。近くて必要な場所で必要なだけ使えば、素材の良さを保つことができるのではないでしょうか。

 「計算し、脳で考える」ことや「検索して正解を導き出す」ことが優先されてきましたが,正解が無くて何が起きるか分からない時代になって「変化」に対するレジリエンス(復元力)が薄れている気がするのです。
 検索された情報に加えて、昔から変わらずにあって深いところにある原理の中に「変化」の時代に生き続ける突破口があるように思えてなりません。

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