ミクトランテクトリ!

ウィチロポチトリ!

無数の声は文字が投げた網の合間を途端に擦り抜けて壊れて散らばる。言葉は役立たずどころか言おうとしていたことさえもヴェールで包んでうやむやにしてしまう。きっとヴェールを剥がしきる頃には中身がすり替わっているか、すっかり腐りきっているかしてしまっていることだろう。とにかく許せないのはそんな信用ならないものを使って絶えず何かを語ろうとしなければならないということだ。とはいえ誰かから語れと命令されているわけではない。では何故語ろうとするのか。それはただ単に日々自分を悩ます騒音のほんの一部でもどこかに仕舞い込んでおきたいからにすぎない。強いて「言え」ば。
言葉は鎖のように連なっていく。(連なっている?)何にしても人間はその呪縛から逃れることはできない。なんて哀れな生き物なのだろう。われわれは創造主さながらに言葉を生み出し操っているような気になっているが、その実言葉によってしか自らの存在を確立することができず、ゆえに一生涯を言葉の奴隷として過ごすしかないのだ。さらに都合の悪いことには、言葉は猫同様に、またあるいはそれ以上に気まぐれなのである。神出鬼没、変幻自在。捕まえようとすればする程遠ざかる。かと思えばこちらが寝入っている時や何かに限って薄ら笑いを浮かべながら近寄ってくる。ならばとこちらが振り被るとまた逃げていく。これが永遠に続く。
もううんざりだ。言葉と付き合っていくのはこの世のどんなことよりも苦しくて切ない。そもそもこの得体の知れない生き物をどう扱えと言うのだろう。今だって訳もわからず口から出まかせを言っているに過ぎないのだ。(という一文だって頭の中で思っていたのとは、この一文だってそうだが、全く違っている。)それでもわれわれは日々言葉への恋文を認めることを余儀なくされる。他ならぬ言葉を用いて。
何かを表すなんて芸当は神にでも任せておけばいい。否、むしろ本当に神が存在するのであればそれはきっと言葉そのものだろう。どのみち一言でも発した途端矛盾が生じてしまうならばいっそずっと無意味なことをまくしたてている方がましだろうか。無意味なこと。意味の無いこと。そんなことなんて無い。意味の無いことという意味があることならあるかもしれない。「ある」と「こと」は意味がぶつかっている。人は考えるのか、考えるから人なのか。かつて誰か頭のいい人たちがそんなことをこねくりまわしてたらしい。
確かに言葉は人間の発明品だ。我々愚かな人間が白紙の時間と空間(もはや主張は破綻している)とに意味を見出してしまったのだ。見出された概念達は関係を結び、そうすることで規則を生み出してしまった。その結果、皮肉なことに親が子にがんじがらめにされる羽目となった。そう、結局言葉という神を作り出したのは我々人間である。神は子であり父ではない。信心深い者たちは皆盲目で、その偶像に縋り付き、へつらい、慈悲を乞う。一定数いると思われる懐疑主義者たちもまた、最終的にはその絶対的な威信に屈さざるを得ない。何せ生きるには重力がはたらいて仕方がないからだ。その他の者たち、そうした言葉の権威に真っ向から対する者たち、彼らは「不在を持ってして(本当は点を振りたい)」反抗の意を示す。故に厳密には、そのような者たちはこの世にはいないのである。そうした者たちをわれわれは決して認識することができない、とも言えるかもしれない。

またこんな不恰好な泥臭い文章を残してしまった。でもそうする他ないんだ。
どうしようもなく苦しいんだ。
燻ってさ

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