ぷみょぬ

言葉が嫌いだ。
言葉って分類箱に他ならないわけじゃん?それにしても作りが雑すぎる。何でも入るし何にも入らない。

僕は人と話してると言葉足らずだって言われることがしばしばある。どうせ言葉が何にも言い表してくれないんだとしたら(この表現もどうかと思うけど)極力何も言いたくないっていう僕の気持ちが反映されてしまっているらしい。

じゃあなんで今こうして文章を綴ってんだって話だけど、この問いこそ僕が追求したい謎なんだ。解明することは多分できないって本能的に知ってんだけど、追い続けることに意味がある、その姿勢こそに何かヒントが隠されてる、と信じてる。まあ知らんけど

本を読むのは割と嫌いじゃない。読んだ本の数は全然多い方じゃないんだけどね。(むかしのえらいひととかの読書量ってほんと半端じゃないよねびっくりしちゃう。)今だってちょっとSNSひらけばみんなこぞって夏休みは何十冊読んだとか、今月は何冊読む予定だとか言ってる。

でも読んだ本の数だけが重要なわけじゃないと僕は思う。(自己弁護だけじゃなくてね!)
字面を追うだけなら、言語を習得した人であれば誰だってできる。でも本当に重要なのはその文献から自分が実際に何を「見聞き」したか。なのではないかしら。読書の過程でどんな発見をするに至ったかってコト!要するに。本を読むのって自分自身を再構築する作業だと思う。新しい概念や考え方との出会いでそれまでの自分がどんどん溶けてバラバラになっていく。そしてまた新たな形で再編成されるんだよね。

多分だけど世界ってパターンで成り立ってるんじゃない?「成り立ってる」って「言葉」が「ある」ってことはつまりそういうことだとは思うんだな。(鉤括弧多用失敬仕り候。)人間の思考にもパターンがあって要はエレメンツを集めて組み合わせていくことで人格と呼ばれるものが形成されていくんでしょうな。(個人の感想笑です)だから同じようなものを同じように見聞きしてきた人って思考が似通ってたりするし、MBTI診断みたいな性格診断があったりするのも(精度や信憑性はともかく)納得いくよな。

本でも同じことが起こる。これ自分が書いたか?ってくらい共感(この言葉あまり好きじゃないから本当は使いたくないんだが)させられる一節に行き当たることたまにあると思うのだけど、それは自惚れでもなんでもなくて、ただそれを書いた人と似通った経験をしてきた結果なんじゃないかしら。生き様まで似てることはあんまりないかもしれないけど、少なくとも同じような物や人やもっと細かく言えば文章に触れてきた可能性は大いにある。

だから一冊の本って自分を見つめ直すことのできる鏡とか、世界をもっと見えやすくするための虫眼鏡とか双眼鏡とか、あるいはそういうきっかけになるものって意味では窓みたいだなって思う。それらをスペクタクルとか総称できなくもないかもね。我々はこいつらを上手く使いこなすために、まずよくよく目や耳やなんやらを肥やさなきゃならないし、自分達自身もまたそうしたものの役割を担っていかねばならないんじゃないかな。何故ならスペクタクルってのはそういうことだからね。



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