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「ドラゴンの巣」に挑んだ人々の孤独さに、処方せんはあるのか?

1兆円が隠された、ドラゴンの巣

日本の現実世界でほとんど影響がなかったように思える、金融世界の大事件がある。
仮想通貨(以下より暗号通貨または暗号資産)の取引所、FTXの破綻劇、それによる利用者のお金の喪失だ。

たぶん1兆円以上は持ってるはずだが、どこにあるかわからない。
会社がドラクエみたいなRPGの迷宮、この本の表現を借りれば「ドラゴンの巣」と化し、顧客資産という宝を見つけることが困難になってしまった。

この「ドラゴンの巣」を作り出した男とその周囲の人々の、あまりに孤独な内幕。
それがこの「1兆円を盗んだ男」という本だ。

暗号通貨のSFを書いた私も、この状況はひどく困惑した。
確かに価格の乱高下を狙った悪質な取引を実行される可能性については書いた。

まさか取引所そのものが自壊するとは思っていなかったし、そうなる前に人々はドラゴンの巣に近づかないと、本気で思っていたからだ。

しかし、私の周囲にも、それなりの人数の人々が、暗号通貨に関する話題を話していた。あれほどの雑談は、正直あの時以来目撃できていない。

まるで私たちが小中学生の時に、遊戯王やポケモンカードなどのトレーディングカードゲームの話をしていたように、昼休み中は暗号通貨の話題を話し続けていたのだ。

しかし、中国の暗号通貨規制か、FTXの破綻のどちらかを契機に、誰も暗号通貨の話題を出さなくなってしまった。そうして、彼らの雑談の風景は、消えて無くなってしまった。

どうなってしまったのかは、残念だが怖くて聞けなかった。

そこでこの本で改めて、「なぜ大事なお金で仮想通貨や暗号資産の「ドラゴンの巣」に挑んでしまった人たちがいたのか?」を考えた。

そこから見えるのは、今まではうまく暮らしてきたはずの、どこにでもいる孤独な人々の姿だった。


「……そもそも、暗号通貨とか暗号資産ってなに?」

これがほとんどの人にとっての状況のはずだ。
なにせ、普通に暮らしていたら使う必要がないからだ。

暗号通貨または暗号資産は、法的な整理で言えば、アンティークコインか、有価証券(つまりは株券)のどちらかの位置付けにある。

アンティークコインとは、かつて存在した王朝や政府の通貨、つまりすでにそれら組織の裏付けを受けることのない通貨を指し、コレクターによって高値で取引されることがある、一種の骨董品だ。

暗号通貨もまた、国家や組織による裏付けがないものが多いことから、だいたいアンティークコインと同じ扱いにできるといえる。

一方で有価証券とは、企業が発行する株券や国債みたいな、持っていることで配当や金利を発行元の組織から得ることができるものを指す。

これは逆に組織によって株券なら配当や株主優待、国債なら国から金利、という裏付けが存在すると言える。それら裏付けになる見返りがある限り、人は資産を預ける誘引(インセンティブ)が生まれ、取引価格もある程度安定する。

暗号通貨の種類の中でも、こうした株券のような役目で作り出されたものが存在し、それらは暗号資産と呼ばれ、株券とその会社の上場に伴う内部監査を回避するかのようにつくられる事例が存在し、そうした詐欺事件が起きている。

実は今回のFTXも、この株券に相当する暗号資産FTX Token, 通称FTTの大量売却、それに連なる裏付けの疑念が震源となって、顧客に本来預かっていたはずの資金を返せず、結果破綻した。

こうしてアンティークコインや有価証券とみなせる根拠となるのは、単純に言えば、これらが偽札のような偽造が困難であるから、という点に尽きる。

しかし、通貨としての価値の裏付けがないか、FTTのように裏付けのようなものがあっても証拠を示せなかったりすると、何か事件があるたびに暴落する。

普通の人たちがこれをギャンブルというのも頷けるし、私の周囲の人々も、ほとんどギャンブルのような理由で始めたようだった。貯金があるから投資だとか。

そもそも、アンティークコインも有価証券も、暮らしのために買う必要がないし、同じくらいに暗号通貨を買う必要がない。暮らしていく分にはすぐに活用できる日本円で十分だし、暗号通貨や暗号資産の性質は、貯金や国債や株券よりも、価格が不安定という意味で明らかに劣化しているからだ。

ではなぜ、暗号通貨や暗号資産を買う人がいて、こんなFTXのような「ドラゴンの巣」に挑んでしまった人がいたのだろうか?

私がこの本を読みながら感じたのは、彼らが現実世界で阻害されていると感じ、暗号通貨や暗号資産の数字の中にこそ一体感を見出していたという、孤独さであり、その孤独からの逃避行ではないかという仮説だった。

ソシャゲ依存症とか、SNS依存症とか、要するにそれらに至る過程と同じだったんじゃないだろうか?というわけだ。

奇妙にも、ドラゴンの巣をつくりあげた、FTXの社長で中心人物、サム・バンクマン=フリードの様子からも、ひどくその孤独さが見え隠れする。


ゲームをなだめ行為にして、大事な会も欠席する

サム・バンクマン=フリードはこの本の中で、「プラダを着た悪魔」のモデルとなった世界的ファッション雑誌編集者アナ・ウィンターとWebミーティング中、バレないように対人ゲーム「Storybook Brawl」をプレイしている。

ファッション業界にFTXとしてスポンサーになるかどうか?という重大な会議だったにも関わらずだ。

結局彼は主宰された舞台に現れることはなく、ファッション業界の面々をカンカンに怒らせ、FTX広報担当者経由で出禁を言い渡されるのであった。

他にも重大なweb会議の大半をこうしてゲームをしながら過ごしているし、おまけにすっぽかす。なんなら、FTXが破綻した直後すらも、ビデオゲームをしながら応じるほどであった。

彼はもともと、自閉スペクトラム症に近い傾向を持っていて、特定のパターンに沿った行動をすることが多いこともこの本のなかで言及されている。たとえば、貧乏ゆすりなどだ。

この貧乏ゆすりの延長線上にある行為として、これらのゲームをしているかもしれない。

人は一定のパターンを繰り返すことで平静を保とうとすることがあり、これは、「なだめ行為」と呼ばれている。

サムの場合はこうした「なだめ行為」が比較的目立ちやすい方向に現れており、周囲を困惑させる描写もこの本の中で存在している。


「効果的利他主義」がすべての元凶なのか?

この一方で、サムは効果的利他主義、と呼ばれる思想に影響されている描写もある。これがどんな思想なのかをこの本の訳者あとがきより引用すると、

これは今、米国のテック業界で宗教と呼ばれるほどの普及をみせている思想で、限られたリソースを最も「効果的」に活用することで、他者の幸福を最大化することを目指す考え方だ。

マイケル・ルイス「1兆円を盗んだ男」訳者あとがき

普通に聞けばさして無害どころか、むしろ有益な見解にも見えなくもない。
だが、私が読む限り、少々危ういところも見受けられる。それはオックスフォード大学の哲学者、ウィル・マッカスキルの講演にある。

マッカスキルが講演で時間を割いた、より明白な選択肢は、直接支援者と金儲けの達人のどちらを選ぶか、である。単刀直入に言えば、それは「善をなすべきか?それともカネを稼いで、そのカネを他人に払って善をなさせるべきか?」

マイケル・ルイス「1兆円を盗んだ男」3 メタ・ゲーム

「前提としている支援の経営(マネジメント)というものが単なる金の数字で動かすことが事実上不可能であり、直接現場に向かい人々と会話しながら善とその統治を有効にしていくしかない」。

私のようにこうした一種の現場主義を考える人は、すぐさま「善をなすべき」と答える。非常に古典的な経営者の理念であり、戦後から始まったトヨタ生産方式にもこの現場主義の傾向は強い。

一方、「カネを稼いで、そのカネを他人に払って善をなさせるべき」と考えて実践するのが、いわゆる効果的利他主義だ。このとき、善とその統治をどのように有効にするのか?を自ら考えることはしていないかもしれない。

善と統治を有効にすることは、問題に組み込まれておらず、前提が崩れかねないために一般的には数理モデルには属させることが難しいからだ。

講演後にマッカスキルに声をかけてきた人のおよそ4人に3人は、数学や科学の素養を持つ若い男性だ。「この講演に魅力を感じる人々の層は、物理学を専攻する博士課程の学生の層に一致します」と彼はいう。「多くの人々が自閉スペクトラム症の特徴を持っており、平均の10倍の有病率です」

マイケル・ルイス「1兆円を盗んだ男」3 メタ・ゲーム

残念ながら自閉スペクトラム症の傾向を持つ人々は、孤独に悩まされていることが多いようだ。

だからこそ、彼らにとって親しみのある数理モデルによって理解できる効果的利他主義は、彼らが社会に関わるための理念となれたのかもしれない。

いずれにせよサムは実際にこの効果的利他主義を実践し、暗号通貨界隈で喝采を得たのかもしれないが、その外では様々な非難を受けたようだった。

例えば、サム自身が楽しんでいた「Storybook Brawl」の買収は、ほぼ数日で500件近い「不評」がつく事態を招いた。

ほかにも突如として効果的利他主義者の議員であるキャリック・フリンの広告を本人に通告なく出してみたり、スポーツ界に出資をしてみたりなどをしていたが、どれもうまくいったようには見えない。

仮にこれら活動がうまくいって社会的に認められていたら、サムは禁錮25年など言い渡された時に、もっと多くの同情の声が寄せられたはずだ。

かといって、ここで効果的利他主義が全ての要因だと断言しようとしたら、どうも腑に落ちないことがある。
FTXの利用者の大抵は効果的利他主義者ではないだろう、ということだ。

当時の私の周囲でも、トレーディングカードゲームのような話は聞こえたが、その文脈で効果的利他主義じみた話を聞いたこともない。

実際、FTXの従業員たちで効果的利他主義者はあまりおらず、日本でも効果的利他主義という言葉は、正直一般的じゃない。そもそも、何が「効果的」なんだ?と私は疑問に思うレベルで、この記事以外で使えそうにない。


金融のルールや規制を理解していたFTXの利用者はどれくらい?

私がむしろFTXの利用者や私の周囲の人々、そしてサムとの共通点で目を向けたのは、その論理と行動は孤独さゆえに非常に素朴だということだ。

私の周囲でたまたま暗号通貨や暗号資産の話をしていた人々も、まるで小中学生の頃の私たちが、遊戯王やポケモンカードなどのトレーディングカードゲームの話をするように暗号通貨や暗号資産の話題を話し続けていた。

サムやFTXの利用者を含めてあえて金融の知識をすべてフラットにすれば、〇〇が値上がりしている、するかもしれない、とかだ。

それらは天気予報をいかに正確に当てるか?やその理由を正確に述べられるか?という話がほとんどだった。

ゲーム風に言えば、「〇〇というキャラが壊れキャラ」とか「環境がインフレしてきた」とか「次のキャラは〇〇」とかだ。

値上がりの理由を正確に述べられる個人が暗号通貨の市場に参加していたようには、私は思えない。

社会から阻害されているように感じる孤独さを抱えた人々がネット上で見つけた宝が、暗号通貨の値動きだった。自分も社会的に成功したい。だから、買った。それくらい素朴だったとみられる。

そうして買えば、同じようなプレイヤーと会話ができた。この経験のやりとりこそが、孤独を癒した。それが私がみた、周囲の雑談の様子だった。仕事の話とは違う一体感が、そこにはあった。

これがトレーディングカードゲームやRPGであれば、どれほどよかったか。もしくは、仕事の話でこの一体感があれば、どれほどよかったのだろう。

この本では、こうした素朴さにどのようなリスクがあったのかを次のように言及している。

2017年のブーム開始から2022年6月までの間に、暗号資産は伝統的な金融システムを再現していたが、そこには、従来の金融には存在するルールや規制、投資家保護が一切伴っていなかった。ブローカーも存在した。また独自の銀行や、暗号資産預金に対して暗号資産金利を支払う銀行のようなものもあった──ただし、そうした預金には保険が適用されなかった。

マイケル・ルイス「1兆円を盗んだ男」8 ドラゴンの巣

これらリスクに気づいた個人なら、間違いなく暗号通貨や暗号資産に手を出す理由がなかった。せいぜい、定期預金やNISA、自分の家に留めたはずだ。

これらを正確にリスクとして理解して取り組んでいたFTXの利用者は、そして暗号通貨や暗号資産の投機家たちは、果たしてどれくらいいたのだろうか?

そもそも、そうした金融システムのルールについて把握した上でトレードを実施している人々は、果たしてどれくらいいたのだろうか?

本当に理解できているのは、より巨大な資金で激流のようなトレードを続ける機関投資家たちや、金融商品を販売をするさいにお経のように説明をする金融機関にいる人々だけなのではないだろうか?

大事なお金で暗号通貨や暗号資産の「ドラゴンの巣」に挑んでしまった人たち。
孤独さゆえに数字にすがった、とても素朴な人たち。

法的な保護があり、うまくいく場所に居続けることさえできれば、きっと彼らはこんな被害に遭わなかったのではないだろうか。

この被害について、ほとんどの人は口を閉ざすだろう。お金を失ったとしたら、家族の誰にも説明ができないだろうし、これまで一緒に話していた人々も、大損をしたはずだが聞くこともままならない。

その一方、金融以外の観点での私もまた、彼らのように何かにすがって、ひどく素朴に何かを信じているかもしれない。

信じていたものが、突如として崩れる。
孤独な人々にとってのFTXの破綻劇は、そうしたものだった。

友人に裏切られたり、会社が誤った道を歩み始めたり、家族との関係が後戻りできないくらい壊れてしまったり。
そういった苦しみに、近かったのかもしれない。

明日は我が身かもしれない。
そんな時、私たちはどうすればいいのだろうか?


孤独さゆえに何かにすがる私たちの処方せんは?

では、孤独さゆえに何かにすがっているかもしれない私たちに、処方せんはないのだろうか?未来に起こり得そうなこのような金融事件や詐欺事件を止める方法はないのだろうか?

「ドラゴンの巣」のような、誰にとってもわかりやすい人や数字というものの信頼がどのようにできているのかを根掘り葉掘り調べてこい、と言って実践していけばうまくいくようにも思えない。

義務教育に組み込んでも、アメリカや日本ですら誤った投資セミナーや疑似科学、誤った風説が一定の割合で形成される現代をみるに、安易に肯定できそうもない。たいていの詐欺事件は、こうしたところから起きるからだ。

だからこそ、あまりにもささやかかもしれないが、そうした「ドラゴンの巣」や誤った投資セミナー、擬似科学に代わるように、もう少しいろんな人と信頼関係を持って会話できるようにしていくほうがよさそうだ、と思えている。

これら金融事件の被害者、疑似科学の被害者、私の周囲の人々を見るに、そもそもの会話量がどうにも少なそうだ。彼らはただ会話ができないがために、本来の力を引き出せずにいるように、私には見える。

それらの人々と関係はないが、私と他愛のない話で花を咲かせてくれる人たちですら、そうしたことをふとした瞬間に伝えてくれる。なら、口を閉ざした彼らもまたそうした会話やそれができる信頼関係を渇望しているのかもしれない。

そうしたことに気づいたのは、ふと興味をもって読んでみたかかりつけ医に関する本だった。

この本によれば、患者との会話の中で、そうした他愛のないように思える繰り返しなやりとりもかなり多いそうだ。テーマ・コミュニティという集まりを提供することと合わせて、シンプルなカウンセリングや手当すらも、患者と医者という関係そのものが治療的になることも書かれていた。

私は医者ではないし、テーマ・コミュニティをつくれるほどでもないが、せめてこれからも何か関わる相手だけにでも他愛のない会話ができるような相手になれたら、と思う。

これらは効果的利他主義とは反すし、いわば現場的利他主義といえどもあまりにもありきたりだ。

それでも。
周りにいる人たちが、大事なお金で「ドラゴンの巣」に孤独に挑むのではなく、とりあえず他愛のない会話をしに行ける、そんな相手になれたのなら。

サムのような効果的利他主義者が感じた孤独や寂しさに、私もいつか、応えられる日が来るのかもしれない。

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