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ロシデレを通して気づく僕の〇〇人らしさという偏見

コミカライズされたロシデレ

あのライトノベルで出ていた「時々ボソッとロシア語でデレる隣のアーリャさん」略してロシデレは、なんとコミカライズされている。僕はそのことにかなり最近気づいた。

僕は小説を読むのが大の苦手なので、コミカライズは本当にありがたい。漫画1冊で小説0.5冊分の分量なわけで、2冊読めば小説1冊分の分量となる。

小説1冊は読むのに一週間近くかかってしまうが、漫画2冊なら二時間半ほどで読める。映画一本分の時間だ。絵があるということはそれだけ認識を助けてくれるというわけだ。関係者の皆様には頭が上がらない。

ロシデレは現在2巻が発売されている。つまりこれで小説1冊分ほど、映画にして一本ほどとなる。

日本人とロシア人のハーフの子による、日本語でのねじ曲がった苦い表現と、聞かれてなかろうという隙から発せられるロシア語による素直な甘い感情表現。

ブラックコーヒーとアイスクリームの最強コンビを映画一本分、簡単にお楽しみいただけるというわけだ。

しかし僕は映画一本分の喫茶店の思い出のためだけにこのロシデレを読んでたわけでもない。もうちょっとめんどくさい事情で読んでいた。

いま僕のやってること

最近、ロシアの子が、ウクライナの天使と呼ばれる戦闘機パイロットに憧れ、やがてそんな戦闘機パイロットになっていくという自己実現の話を書いている。

しかし、25000字、つまり漫画1巻の半分あたりまで描いて驚くほど詰んでる。主な原因は、ロシアやウクライナというものをうまく自分の中で整理しきれていないことにある。

別に何もせずに滝に打たれに行ったりとか、自分探しの旅と称して新宿を徘徊したりしてたわけでもない。今日に至るまで、それなりにロシアとウクライナがらみの本は読んだつもりだった。

わかりやすいウクライナ危機後の世界に始まり、ロシア点描、自由なき世界、現代ロシア経済の本も読み、果てはウクライナ通貨誕生やゼレンスキーおじさんの演説まで読み漁ってる。ドラマ国民のしもべ、も一話だけでも見ている。

どれも学ぶべきことが多く、いまだに書きながら読み直して意味を悟っていく毎日でもある。すべては、本当のロシアの子がいつかこの作品を読んだ時にも納得した上で楽しんでもらえるようになってほしいと願ってのことだった。

だが、書けば書くほど、自分の作品の主役が、どこかロシアの子だと思えないという問題が起きた。

自分の描く主役には作中における説得力リアリティをいくつか持たせる工夫こそさせている(説得力リアリティについては後述する)。

しかし説得力ある主役だとしても、「潔癖主義ピューリタニズム的な経済倫理を持つ近代資本主義」を本気で信じる、平和な国、日本でのびのび生きた子にしか思えなくなったのだ。

現代ロシア経済、で描かれるオリガルヒのような、野放図な功利主義の序列社会が広がりがちなロシアという国で育った子には思えなかったのだ。

(「潔癖主義ピューリタニズム的な経済倫理を持つ近代資本主義」というものの詳細は以下のマックス・ヴェーバーの本を参照のこと)

そのときに感じた疑念を払拭させるには、現実リアルさが必要だと思った。ロシア語を通してロシアらしさが入り込むであろうと考えてロシア語でデレるハーフの子の話を読んだというわけだ。

しかし、このアプローチは間違っていた。

説得力《リアリティ》と現実《リアル》は違う

説得力リアリティは、現実リアルに根ざした形で作られると一般的には勘違いされがちだ。

しかし事実として、説得力リアリティは、現実リアルなしで構築することができる。

たとえば宇宙人なんかがわかりやすい。別に出会ったことはまだ誰もない。だから現実リアルなしだ。

それでもウルトラマンは出せる。「禍威獣が日本に出まくりました」という過程を挟むことで、禍特対やウルトラマンが出てくる状況を説得力リアリティをもってつくりだせる。

ロシデレについても同様に、現実リアルなしで説得力リアリティを構築しているように思う。

アーリャさんはあくまでロシア語を話し、ロシアで暮らしている時間もそこそこあるハーフの子で、現時点で日本はロシア語を英語ほどは訓練してる人は少ないだろう。

だからこそアーリャさんはバレやしないだろうと思ってロシア語で普段と異なる甘々な表現を最高のポイントでしてくることに、説得力リアリティがある。

別にこれが他のマイナーな言語であったり、別の国であったってこの構造はつくりだせはする。

つまり現実リアルに相当するロシア語特有の語彙や語感、スラヴ系やアジア系などのロシア人の民族じゃなくなる可能性はあれど、(もっとわかりやすく言って)ロシア語特有のリズムやルックスが変わっても、説得力リアリティある構造はつくりだせるのだ。

というわけでこのアプローチは間違っていたのだが、ここから話はややこしくなっていく。

そもそも〇〇人らしさって?

ロシア人らしさ、アメリカ人らしさ、日本人らしさ。こういった言葉は時折出てくるわけだが、これほどまでにあいまいでつかめないものはない。しかし僕はこれを追いかけ続けていた。誤った問いからスタートしていたのだ。

こういうのは、偏見と呼ばれるものだ。まさか自分がこんなのにひっかかるとは思いもしてなかった。猛省である。

ロシアで権利と義務を果たしているロシア人でも、今回のプーチンの宣言した軍事作戦なる戦争に勇気を持って反対をし、警察に殴られたり捕まったりしていた人たちは、本当にたくさんいた。

その一方で、戦争に参加し、ウクライナで非武装の民間人を殺す犯罪を上官の指示に従って行なったためにウクライナで実際に司法の裁きを受けるロシア人もいる。

こうしてそれぞれ行動が違うのに、ロシア人だから、といってそのらしさが一致するとは思えない。

このへんは日本人らしさ、というフレーズでも同じことだ。釈迦のような人もいるし、残念ながら犯罪者もいる。そこに日本人らしさ、を見つけだすのは困難だし、たぶん国ごとの教育内容や発達してる企業の差分しか出ないだろうし、いいとこ人類共通の特性しか話で上がってこないと思う。

だから、自分の作品の主役の子が多少日本人の子みたいにのびのびやっていたとしても、それだけが理由でロシア人らしくない、と疑念を抱くのも間違いだったのだ。

同じように、ロシデレのアーリャさんがいかにロシア系財閥ことオリガルヒの娘と想定したとしても、彼女がそれだけが理由で自律的に財閥解体の努力をするしないを本気で考える子かどうかなんかわかりようがないし、ロシデレにおいてはいっさい関係がない。

ロシデレのアーリャさんは、作中では自分なりに自由にのびのびと主人公の政近さんとやりとりしているし、そこに至るまでの物語も丁寧に書かれている。それがとても素敵なことなのは、決して変わりはないのだ。


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