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ロジカルシンキングの再出発:ロジックとレトリックを基盤とした、人と学び、恋し、楽しむための対比という再定義

ロジカルシンキングにうんざりして

ロジカルシンキング、という言葉がある。論理的思考、と呼ばれるものだ。僕はいろんな大人から聞かされてきたように思う。現実世界とか、ツイッターとか、noteとか。

ロジカルシンキングは次のようにWikipediaで書かれている。

ロジカルシンキング(logical thinking)とは、一貫していて筋が通っている考え方、あるいは説明の仕方のことである。日本語訳として論理思考あるいは論理的思考(参考→思考#思考の種類)と置き換えられることが多い。日本で育まれており、論理学に由来する考え方やコンサルティング業界に由来する考え方に分かれる。後者に「重複なく・漏れなく」対象を分析するMECEといった考え方がある。

Wikipedia「ロジカルシンキング」2023/07/09 当時

とはいえ、僕にはロジカルシンキングが、一貫していようとも、まったくロジックにみえなくて、正直うんざりしていた。

かつての僕からしてみれば、論理的とはつまり、まったく論理ではなかったのだ。

ロジカルシンキングは、論理ではない?

というのも、論理、ロジックの究極系であるiPhoneやWindowsマシンのハードウェア、つまりコンピュータハードウェアを表現するためのロジックと、大人たちのいうロジカルシンキングがあまりに乖離しているからだ。

コンピュータハードウェアの世界が、0と1という二進数で表現される、というのは誰しも聞いたことがあると思う。

でも、0と1というつまらない二値を使って論理式を組み立てていけばコンピュータができる、なんてすごく眠たくなる話を聞かされた人は、多くないと思う。

自分さえ良ければいいと暗に考える人間が、こんなつまらないコンピュータの話を嬉々として学んでいるとは思えない。

だから、ロジカルシンキングとはあくまでロジック的なもの、つまり論理的にみえる偽物でしかないと僕は考えてきた。

ロジカルシンキングはレトリックの一種であり、デマで大やけどする危ない道具?

さらに人間は、このロジカルシンキングの幻覚でいつも大やけどしている。最悪の事例は詐欺師、プーチン政権、選挙広告代理店ケンブリッジ・アナリティカの手法であり、彼ら本人すらも約束のものを得られないままに、社会的に追い込まれている。

事実に立脚せず、自他へ放火する手口。こちらは、レトリックの一種と僕が思っていたものだ。人をだます目的でロジカルな手法で組み立てるのは、一般にデマ、デマゴギーと呼ばれる。

自分勝手な人間ほど、人の不信感をつくりながらこのロジックのようなもの、レトリックを駆使する。ロジカルと言われる、まったくもって論理でない方法によって、自分も他人もだます。だから、みんな大やけどする。

人の不信感をつくる比喩をつかったり、誇張したり、それらを並べ立ててて強調したり。ちなみにここまで書かれているものすらもレトリックが利用されている。比喩法、誇張法、列敘法といわれているやつだ。

つまり僕は、ロジカルシンキングとは、レトリックの言い換えでしかなくて、論理に結びつかないままにデマをつくりやすい、自他の大切な資本を放火する、使うべきでない道具なんだとずっと考えてきた。

ただ、最近になってレトリックの本を買ってきていろいろ考え直し始めている。本当のレトリックは、そしてロジカルシンキングは、正しく再定義できれば、もっと正しく使えるものじゃないだろうか?と思い始めていもいるのだ。

そもそもロジックとレトリックは、同じところ、対比から来ているんじゃないだろうか?

ロジックとレトリックの元祖、対比

ロジックの最も典型的な事例、論理式は数式として、左辺と右辺がある。これは一番わかりやすい対比といえる。

y=a&bなんてコンピュータ向け論理積である論理式なんて対比として誰も興味はないだろう。

たぶん対比として面白い数式といえば、E=mc^2とかだ。ちょっと物理学が好きなオタクなら見覚えがあるはずの、エネルギー=質量×光速×光速。桁違いなエネルギーが、ごくわずかな質量から溢れうるという、核兵器の威力を推測できる対比だ。

そして、レトリックの最も典型的な事例といえば、比喩法だ。ここまでで利用してきた、放火、というのもこの比喩に相当する。

事実に立脚せず、自他へ放火する手口。こちらは、レトリックの一種と僕が思っていたものだ。人をだます目的でロジカルな手法で組み立てるのは、一般にデマ、デマゴギーと呼ばれる。

こちらは本来、次のように書かれるはずのものだった。だがこちらの表現は、人に印象を植えつけづらいとみられる。

事実に立脚せず、自他に損害を与える手法。こちらは、レトリックの一種と僕が思っていたものだ。人をだます目的でロジカルな手法で組み立てるのは、一般にデマ、デマゴギーと呼ばれる。

つまり、放火=損害を与える、という本来はイコールで結びつかない、対比になりそうにもないものを比喩として無理やり結びつけることで、かえって人に印象を与えようと僕は画策した。僕もまた、デマをもたらす人間なのだろうか。

以上の観点から、僕はこう考え始めた。

数式と比喩は、どちらも何かの対比を前提とする。
だから、それら数式や比喩を基本とするロジックもレトリックも、対比が元祖になる。

数式を直接論理、比喩を間接論理、と表現し、どちらも利用する対比の表現がロジカルシンキングである、と再定義できるんじゃないだろうか?

つまり、対比思考ロジカルシンキングってわけだ。日本のロジカルシンキングが、批判的思考クリティカルシンキングと呼ばれる所以もわかる。

そうすれば、ロジカルシンキングは学ぶための道具となりうる。フィクションにすらも適用できるものになり、学ぶということと楽しむこと、そして恋することは同じ場所にすることができるんじゃないだろうか?

……という乱暴な理屈、いわば願望を、今回は述べていく。今回は書きたいように書いてしまっているので仕方がない。

なんで人は対比が好きなのか?

対比というものが弁論から数式に至るまで至るところに残っているということは、たぶん、人間は対比というものが好きなんじゃないだろうか、と僕は考えている。

中高生と中高年の対比は、シニア層に大人気の芸人である綾小路きみまろさんならばよくやってくれるネタだろうし、プランAとプランBみたいな比較表は、現実ですぐにぶつかる表現だ。劇的ビフォーアフターもウケたものだ。

ちなみに対比とは、コントラストのことだ。絵を描かない人でも、線画の白と黒はすぐわかるだろう。あれが一番わかりやすい対比コントラストだ。

白、灰、黒。それらの明度に階層、つまり階調を設け、丁寧に分けていくことさえできれば、一色でも現実に即した絵を、写真を、画像をつくりだすことができる。これもまた、ていねいに対比コントラストを作ったからこそ成立する。

人は対比(対称性推論)から学習する?

木炭紙での写実的な鉛筆デッサンによる練習の繰り返しと、人間が語彙を獲得する過程は、ある意味似ている。

陰影のことを知らないはじめは白い画用紙を灰色にしかできないし、なにを表現しているか自分も他人もさっぱりわからない。とりあえず名前とかオノマトペから人の言葉が始まるのと似てる。

ネコチャンに話しかけるときに名前とオノマトペしか言えなくなる人類は多いんじゃないだろうか。僕もそのひとりだ。

陰影のことがわずかでも理解できてくると、その形の意味が、ちょっとずつだが、つくりだされていく。だが、物にできあがる陰と、物に遮られてできあがる影との違いまではわからないことがほとんどだし、なんなら影を描くことすらしないことが大半だ。

これは言葉を組み合わせ、意思疎通をしようとする過程に近い。だが、驚くほど言い間違える。日本語なら、いいまつがい、みたいな言い間違いだろうか。テイクアウトをテイクオフといって飛んでしまったりとか。

これらは対称性推論と呼ばれるものらしい。A->Bなら、B->Aだろう、と考えるのは人間特有の思考バイアスらしいが、これを経ないと細かい階調や語彙を、生物は理解することができないらしい。

やがて誤りを学習し、より正確な表現によって全体像がつくれるようになれば、繊細だけど重要な素材の陰影にまで気づき、どうにかしてその陰影を僅かな階調で表現しようと試行錯誤できるし、必要なら印象づけるために崩すことだってできる。

細かい文法や、TPOをわきまえ、論理やレトリックを駆使し、専門用語を述べるのと似ている。専門用語というほとではないが、GitのことをGitHub、JavaScriptをJavaという大人を、僕は飽きるほど見てきた。

……とこのように、間違いと正解を対比し続けることを当然のものとして受け入れ、誤り訂正を行うことを前提に、人は人と向き合い、指導をしていかなければならない。この間違いを知識量で訂正を行うことで、人は知識として吸収していく。

これらは言語の本質によると、ブートストラッピング・サイクルと呼ばれるものらしい。つまり、学習に対比はつきものなのだ。

(学生としての学び方、および先生としての教育方法に関しては以下参照)

ところで、ここまでの学習の学習の過程において奇妙な問題がある。

ここまでに、数式のような直接論理はいっさい存在していないのだ。ではどのようにしてここまで読んだ人が理解をしてきたのかというと、例え話、つまり比喩という間接論理を通して理解している。

間接論理であるレトリックを使って人は世界を学ぶ?

僕がここで間接論理、と読んでいるのは、対象と直接結びつかない表現のことを指す。要は、ここまで言語の学習を、絵の学習で比喩として利用することによって、学習の学習というメタ的な内容を把握することができるのだ。

レトリックの歴史は長い、といって古代ギリシアに始まった……と「レトリック感覚」から引用するのはまあ簡単だ。

この星で一番刷られた聖書のなかでも、特にキリストによってレトリックは駆使されている。「毒麦のたとえ」はレトリックのうちの比喩の典型例であり、最後の審判に関する宗教観を端的に表している。

そのほかにも、人はたとえ話が大好きだ。

お堅いところでも、プログラミング言語におけるクラスをたい焼き器で例えたり、数式にとりあえず何かしらの値を突っ込んで問いてみたりだ。

デマという放火から身を守るために

だが、間接論理であるレトリックは議論の余地を残す。

毒麦のたとえは神の不寛容さとも取れないわけじゃない。
たい焼き器でクラスを例えても、オブジェクト指向プログラミングは使いこなせるわけではない。数式に値を突っ込んで、うまく解けなくなるものだってごくまれにあるだろう。

全員で間違って議論の余地を誤って解釈してしまうなんて、どうしたって避けられない。人の学習がブートストラッピング・サイクルに基づくのなら、どこかで間違いが入ってしまうのは避けられないからだ。

だからこそ、レトリックによる議論の余地を、自分と他人をだます目的で使ってはならない。それこそが、デマの源泉、火事の元だからだ。放火されたらみんな、大やけどするしかない。

自分が間違いにしろデマという放火による火事にしろ、防ぐ手立ては、実はほとんどないのかもしれない。誰もがデマで延焼しうるし、ひどい目に遭うしかないのかもしれない。

僕らはたくさんの知識を手にして、学んで、克服しなきゃいけない、と神になれとは言わない。というか僕らは毎日、難しいことを誰かのために学んでいるし、あるいは楽しんで学んでいる。

だからこう言うしかない。
たくさんの人を信じることによって補完し続けるしかないんだと。

近くにいる人が神であるかどうかは知らないけれど、全てを完璧に理解できるはずがない。だからこそ、互いのことを信じられるように、日々努力するしかないんだと思う。

相手にあいさつしたり、相手のためにちょっと難しいことをこなしてプレゼントしたり、ちょっとした対価として相手の間違っていることはやんわり指摘したり、直してもらったり。

こういう行動を、たぶん自立と呼ぶのだと思う。

互いを信じるためにやれることなんか、正直そこからしかないし、そこ以外の近道すらもない。でなければ、自立ではなく、孤立するしかない。ただひとり、神になろうと必死に世界を知り続けるしかなくなるのだ。

では、いろんな理由でいま孤立している人に救いはないのだろうか?

僕は、孤立してしまった人のためにも、フィクションがあるんだと信じている。

レトリックにあふれたフィクションの世界で、オタクは学び続ける?

フィクションを通して世界を知るなんてことは、誰もが通ってきた道だ。なんならオタクたちはそれらを通して、日々学び続けている。それらはレトリックあふれる、素敵で奥深い、無限に広がる箱庭だ。

僕らの世代は保護者や幼稚園の先生たちの支援のもと、しまじろうたちや教育テレビの妖精たちと一緒に遊びながらみんなと過ごす時のことを学んだものだ。

ナウシカやラピュタ、トトロをはじめとするジブリ作品をみながら、とても大きな世界で誰かのためにがんばることの素敵さを学んだものだ。

そして僕は、ガンダムをみてロボットのかっこよさを知り、漫画版エヴァンゲリオンの表紙を見てその異質さに呆然とし、漫画版ナウシカの絵のすごさに驚嘆したものだ。

やがて僕はインターステラーで映画館のなかで宇宙を旅し、TENETで時間を遡行するなかで変わらぬ因果に苦しみ、iTunesでダークナイトトリロジーを見る中で公正さというものの重みを理解したものだ。

やがてすべての作品がつくりだした巨大で素敵な世界とその奥深さを知り、理解するためにたくさんの本を読み漁り、学校生活や会社員生活でもっといいやりかたを目指して試行錯誤していくなかで、現実と空想のどちらの世界の難しさと、その凄さを学んでいく。

孤立しているはずだったオタクの僕は、そうしてフィクションを通してリアルを知り、リアルでうまくいかないからこそ、これまで触れてこなかった本や、話したことがない人から教わり、学びなおしている。

楽しむ対象がアイドルであろうと、ソシャゲのキャラであろうと、宗教であろうと、たぶん同じだ。

ただ、孤独だとお金以外のつながりを感じられないからお金を使いたくなるだろうけど、それは間違っている。お金は誰もが崇拝しているから手を伸ばしやすいけど、そんな簡単すぎる信仰以外で、できることはまだあるはずだ。

もっと自分のことをそれ以外のことで信じられるように努力することが、たとえばファンの人とちょっとでも話してみたり、ファンの人のためにちょっとしたものをつくってみたり、ファンの人のためにいろんな手助けをしたり。アイドルやソシャゲのキャラも、神様も、喜んで応援してくれると思う。

それが学ぶと言うことであり、楽しんだり、恋をするということなんだと思う。

楽しむことや恋することは、学ぶこと?

孤独を感じやすい僕たちは直感的に思うはずだ。
僕たちは現実を生きる方法を学ぶためにフィクションを見ているわけじゃない。
空想世界を楽しむために、空想世界で恋するために、フィクションをみているのだと。

ボンクラなオタクの願望でしかないが、楽しんだり恋するのと、学ぶのとは、ずいぶん似通ったところにあるんじゃないだろうか?

楽しむこと、恋することは学ぶこと、ということであるのなら、人は学ぶという非常に嫌悪感のあるものに対して、もう少し肯定的に取り組めるようになるんじゃないだろうか?

そうであれば、僕が推しの子を読んで俳優がらみの本を買い漁りながら俳優のことを学び、むしろフィクションのことを楽しめて、よりフィクションで恋することを理解できるようになったことへの理由づけは、たぶんできるようになる。

ロジカルシンキングの再出発

改めて、ロジカルシンキングというものはロジックとレトリックを基盤とした、人と学び、恋し、楽しむための対比なんだと再定義してみる。

そうすると、ロジックではないこととか、人をだますためのデマを多分に含みうるレトリックとか、そういったものは消し飛ぶこととなる。もううんざりするものはない。これで心スッキリだ。

修辞レトリック論理ロジックに至るために必要な架け橋となるし、論理ロジック修辞レトリックを始めるための土台となると、僕は思う。

どちらも欠けてはならない。それらは、事実と意見を分けて書くという、よくある内容にも言えることだ。

事実ロジック意見レトリックも、どちらもあって、人が人と前に進むことができる。これは結局変えようがなさそうだ。

ロジカルシンキングはもしかすると、知性を得たものへの、究極の讃歌なのかもしれない。


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