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【読書録】世界は贈与でできている

近内 悠太 著

実は知らない、お金では買えないもの。資本主義のスキマをうめる「贈与」は、わたしたちの生活の必需品だった。

「贈与」と聞いて、あなたはなにを思い浮かべるだろう。おくり物、プレゼント、ご褒美。“何かを無料でもらう”ことを想像したのではないだろうか。

本書では、贈与の定義を

お金で買うことのできないものおよびその移動

と位置付けている。

わたし自身、概念的な本を読むのが久しぶりだったのでなかなか理解するのに骨が折れたが、自分のインプットのために記録していく。

本当に大切なものは、他者から贈与されることでしか手にすることができない。

これは、この本を読んでわたしが一番心を動かされた言葉だ。

自分で買ったモノ、人からプレゼントされたモノ、同じモノだったとしても、この2つの間には大きな違いがある。プレゼントとして受け取った瞬間、「モノ」がモノでなくなるのだ。

紹介されている例をあげる。親しい人からもらった時計を壊したり無くしてしまった時、何を感じるだろう。多くの人が申し訳ない気持ちになり、全く同じ型の時計を購入してやり過ごしたとしたら、後ろめたさに耐えられないはず。

モノとしては同じ2つの時計。もらったという事実が、モノとしての価値に余剰を与えている。単なる商品だったものが、唯一無二の固有名詞を与えられ、世界に一つしかない特別な存在になる。

普段の生活で誰しも感じたことのある感情が、概念として言語化されている。この事実がわたしの心を動かしたのだと思う。

贈与とは、モノを「モノではないモノ」へと変換させる想像的行為に他ならないのです。

資本主義との線引き。

本書で紹介されているおもしろい事例がある。

イスラエルにある託児所。親の迎えが遅いという問題を解決するために、遅刻する親に罰金を科すことにした。結果、親たちは遅刻回数を2倍にするという反応を見せた。

見事に予想を裏切られるこの事例。わたしがもしこの託児所の問題を解決するとしても同じことをしたかもしれない。

なぜこんなことが起きてしまったのか。

申し訳なさ、後ろめたさを、金銭と交換させてしまったからだ。金銭を払うことで、時間を過ぎても子どもを預かってもらうことがサービス化した。罰金が料金のように捉えられてしまったことがこの問題解決の手段の落とし穴だったのだ。

親たちが“預かってもらっている”ということを「贈与」として感じ、なにか返さないといけないという想いが“できるだけ早く迎えにいく”という行動に繋がっていた。そこに資本主義を入れることで「交換」に変わってしまい、罪悪感をなくしてしまった。

では、いったいどうしたら親たちに時間を守らせることができるのだろう。あくまでもわたし一個人の考えだが、保育士から親に手紙を書く、とかはどうだろう。

親との関係が良好になるほど、あの人に迷惑をかけるのは忍びない…という感情が芽生え、きっと連絡も怠らないだろうし、少しずつ迎えも早くなる気がする。

想像力からはじまる、贈与の世界。

「贈与」には、プレゼントのように分かりやすいものもあれば、上記のように目に見えないものもある。

差出人、受取人、贈与されるもの、この3つの中でいちばん初めに存在したのは、受取人=宛先だ、と著者は語る。

なにかを伝えたい、贈りたいと思う人がいてこそ、差出人になれるし、贈与されるものが生まれる。

また「贈与」という現象は、受取人の想像力によっても姿を変える。

受け取った側が「贈与」としての余剰を感じなかったとしたら、そこから返礼としての新たな贈与も生まれないし、そもそも「贈与」ではなくなってしまう。

世界のあちこちに発生している「贈与」。これを意識するかしないかで、人生の見え方が変わる気がする。

わたしもこれからは想像力豊かに生きていきたい。


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