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最後は9ヶ月過ごしたジャンヌダルクの街へ。

 昨晩の体調不良からあまり回復せず、結局朝を迎えた。吐いたからか気分はスッキリしていた。だが、腹の調子は悪いため食欲は無い。それより早めに宿を掃除する。今日は朝から駅に行き、人に会うため向かう場所がある。それは留学時代の大半を過ごした街、オルレアンへ行くためだ。ジャンヌダルクで有名な街で、パリからはTERで約1時間程の距離にあるロワール県の街。会いに行く人は留学時代にお世話になったフランス人夫婦。7年ぶりなので緊張する。

 パリ市内からは、パリ・オーステルリッツ駅から出る電車に乗る。パリ・リヨン駅の直ぐそばにある駅だ。駅に着いて目にしたのは工事だらけの駅構内。かろうじて待合室のある周辺は変わっておらず懐かしさが込み上げる。後でネットで見たら、どうやら日本へ帰国した2年後の2018年頃から工事が進んでいるらしい。駅に大型ショッピングモールができるとのことで驚いた。電車が来るまで間、駅にあるカフェでホットチョコレートを頼んだ。相変わらず寒い。電車が到着すると、ここのTERもアヌシー同様にように新型車両になっていた。留学中、ここで何度も乗った電車や慣れ親しんだ駅変わって行くのは寂しいものだ。直ぐ搭乗し、1時間揺られてオルレアンまで行く。パリからオルレアンまでの大都市からのどかな田園風景に変わって行く光景は今でも覚えている。あの9ヶ月でこの区間を何度行き来したのだろうか。

 予定通りオルレアン駅に到着。そして、目に入ったオルレアン駅の光景。この独特なうねりのある屋根建築が懐かしい。ここで色んな感情が湧き出て、当時の記憶が蘇ってくる。ここで何度も友人と旅行に行ったり、初めて1人でパリまで行った当時の思い出。涙ぐみそうになりながら駅を後にする。駅にあるショッピングモールもお店が何もかも変わっていた。恐らくコロナ禍でかなり変わったのだろう。フランス人夫婦とは彼らの住むエリアのトラムの駅で待ち合わせしていた。オルレアンにはトラムがあり、大学のあるエリアから駅のある市街地まで一本で来ることができて非常に便利だ。オルレアン駅からトラムに乗ろうと思い、当時と変わらない紙チケットを購入しようとすると、何と紙がないから買えないという初めての事態に遭遇した。これも何かの縁かと思い、スーツケースを引きづりながら2、3駅分歩いた。やはり9ヶ月も過ごしたため街中覚えていた。ジャンヌダルク像やサントクロワ大聖堂も何もかも。

オルレアン駅の構内
ジャンヌダルク像のあるマルトア広場

 体調も良く無いので無理は禁物。駅から少し離れたトラムの駅で無事チケットを買って目的の駅まで行く。トラムのアナウンスも本当に懐かしかった。渡仏当初、トラムの中でパリと違って英語表記も英語アナウンスも無く、その上乗客全員が勿論フランス語を話していて何もかも読めない、聞き取れない状態で恐怖だった。あの辛い時期を乗り越えて、今の語学力にまで上達できたのはそのフランス人夫婦のおかげと言っても過言では無い。一度変えたホストファミリーとも上手く関係を築けず、語学力も全く向上しない中でずっと優しく接してくれた。会う度に“また話せるようになったね!“って冗談でも嬉しかった。

 目的の駅で無事待ち合わせに約束をしていたマダムの方に会うことができた。7年ぶりでも何も変わっていない。また話すことができて本当に嬉しかった。家まで送ってもらい、無事ムッシューにも再会。3歳の孫が家に居たので面倒を見ていたようだった。3人息子が居て、皆それぞれ独立した。そのうちの息子夫婦が預けて夫婦で数日遊びに行っているようだ。アジア人の顔だからか中々話しかけてくれない。久々の再会にランチをご馳走してくれて、ワインを飲みながら沢山話した。帰国してからフランス語を続けていること、今の仕事やプライベート.etc。2人は最近リタイヤしたそうで悠々自適だった。ムッシューの方はRestos de coeur(心のレストラン)という低所得者やホームレスの方に無料で食事を提供するボランティアに従事しているそう。フランスはインフレで光熱費も食料品と何もかも高いが給料は増えないという日本と同じ状況だ。学生やシングルマザーの方など利用する方は多い。メディアを通して見ると、フランスの方が事態は深刻そうに思える。

 フランス式の長いランチを終えると“大学に行く?“と誘ってくれた。行きたかったので非常に有難い。車で送ってもらい、大学に入った。いつもの入口にカフェマシーン、広場で話し合う人文学部の学生たち。ここに来て、“ああ、戻ってきた…“と心から感じた。フランス留学の全ての原点である。大学附属の語学学校であるInstitut De Français *IDF に所属していたので受付まで向かう。そこには誰も居なかったが職員室のコピー機の前に誰か居たので話しかけると以前授業を取っていた先生だった。本当に感動した。先生は名前まで覚えていなかったが、見覚えがあったのか以前ここに居たでしょうと応じてくれた。ここでも長々と話す。フランス語は仕事で使っていないが今でも続けておると伝えると喜んでいた。この先生は遅刻魔で有名で普通に30分遅れることも珍しく無い。アメリカ人の留学生がクレームしていた位だ。先生は親切にも以前使っていた部屋を案内してくれた。部屋は椅子以外何も変わっていない。ここで文法もオーラルも全てやった。今見返しても懐かしさで一杯だ。他に会いたい先生は居たが生憎休みで居らず残念。しかし、次の日から大学は秋のバカンスで休校になるためタイミングが良かった。

いつも使っていた教室
IDFのポスター

 大学から戻り、ムッシューと少し市街地を回り、家で夜ご飯までご馳走になった。ここでも長話になる。しかし、再び体調不良が起こり、吐いてしまった。ムッシュー曰く、疲労だとのこと。3、4万歩も毎日歩いていたら限界になってもおかしくない。夜は翌日のフライトに備えて早く寝た。翌朝は朝8時過ぎのTERに乗るため早起きし、朝ごはんにクロワッサンとコーヒーを頂く。こうやってフランス人の家庭で朝ごはんを食べるのも今後無いのだろうと考えると悲しくなる。こうやって再会できたのだから、きっとまた会えるだろうと言い聞かせてマダムに別れの挨拶をして、ムッシューに駅まで送ってもらう。駅に着き、ムッシューにも別れの挨拶をして電車に乗り、パリまで行く。電車から見えるこの景色も見納めだった。オーステルリッツ駅に着いて、乗り換えて北駅に行き、空港まで向かう。正直この日も体調は良くなかったので帰りの中東経由の便は地獄だった。次回から絶対に直行にすると決める。

 これで旅行記は終わり。今年の2月から書き始めたが、色々あり途中で放棄気味に。しかし、今書いている2024年の10月はあの旅行から約1年経過し、忘れつつある記憶を何かに書き残そうと再び始めた。帰国してからフランス語を続けないといけない使命感で取り組んでいたがパンクして身に入らないことも。それでも続けていきたいと思えるフランス語を恵まれた環境で今も取り組めていることに感謝。ある時から、ゆっくりでいいから絶対に続けるって決めて、心が楽になり、毎朝出勤までの時間で勉強している。将来フランスに住むのかどうなるのか分からないが、常に想っていれば人生でその機会は巡ってくると20代で得た教訓がある。その為には日頃からチャンスを掴むよう努力し、運を味方につける。取り敢えず直近だと、次回の渡仏は来年の夏かな?と考えながらフランス語を続ける以外他に無い。ヘミングウェイのパリを舞台にした“移動祝祭日“の冒頭の有名な一節が勇気付けてくれる。もし、幸運にも、若い頃、パリで暮らすことができたなら、その後の人生をどこで暮らそうとも、パリはついてくる。パリは移動祝祭日だからだ。パリには住んだことないが、きっとまた滞在する機会が巡ってくることを想って。


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