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「親ガチャ」の使用法

「親ガチャ」という言葉が話題になっている。

私はこの言葉を、ここ1年ほどの間に認識した。

まだ会ったことのない友人が、

自分は「失敗した」という文脈で用いていたものである。


現在話題になっている「親ガチャ」とは、

主に親の経済力と、それによって起こる自らの低学歴とか、

不十分な教育投資についての不満を表明する折に

用いられているようである。

この文脈においては、親の人間性や親との関係性など、

内面的なことは度外視した状態で、

単に親の経済力が「金持ち」を下回っていることについて、

「生まれる家を間違った」というニュアンスで使う言葉で、

それが賛否を巻き起こしているようである。


しかし、私がこの言葉を聞いた事始めは、

「毒親の下に生まれてしまった」という意味で用いられた時だった。

つまり大きくは、「良くない親の子供として生まれてしまった」、

という状況を嘆く言葉なのだが、

良くない親というのが、経済力においてダメなのか、

人間性においてダメなのか、ということで、

「親ガチャ」という言葉の賛否は分かれるように思われる。


例えば、大した出世の見込めないしがないサラリーマンの父親と、

パートで働くだけで少額の収入しか得ていない母親、

その子供として生まれ、そう年齢差のない兄弟姉妹でもいようものなら、

大した教育投資は見込めないだろう。

しかしながら、これを「親ガチャ」というのであれば、

頑張ってくれている両親に対して失礼だ、という非難は

当然至極のこととして受け止められるだろう。

もちろん、そんな程度の収入で立て続けに子供作るな、とか、

そもそも論を用いた反論は可能であろうが、

それは社会問題目線というか、あまりに大上段に振りかぶった反論で、

今更どうしようもない、置かれた環境をどうするか、

という前向きな議論には繋がらず、怨恨すら生み出す恐れがある。


その一方で、毒親の子として生まれたことを、

「親ガチャ」と称しているのであれば、

これは非難の対象ではない。

積極的に外部の人間が関わって、救済すべき対象である。

しかしながら、これが親の収入の問題と無関係なのかといえば、

相対的貧困と結びついて毒親を生み出すことになった、とか、

毒親気質ゆえに貧困になり、一層酷い毒親になっている、とか、

決して無関係ではないとも思う。

また、裕福だから毒親が生まれないのか、といえば、

これも決してそうとは言い切れないであろう。

つまり、「貧乏」と「毒親」は、

絶対的に関係があるわけでもないわけでもなく、

場合によっては結びつくこともある二つの要素、という関係にある。


だから「親ガチャ」という言葉に賛意を示すにしろ、

不快の意を示すにしろ、

「経済的な不満」という文脈で出た「親ガチャ」だけをターゲットにして、

論じるべきではない、ということを私は言いたい。

もちろん、仏教など、インド発祥の宗教における「因果応報論」は、

「貧しい親」の子として生まれたことも、

「毒親」の子として生まれたことも、

過去世で行ったことの結果である、という見解をとる。

その限りにおいては、「親ガチャ」ということ自体が、

存在することはない。

一見偶然に映ることも、必然でしかない。

それこそガチャでどのカプセルが落ちてくるか、

ということにすら、

過去の自らの行いの結果が詰まっていると考えるからだ。

あくまでも仏教徒として考えるのであれば、

「親ガチャ」という見方自体がお笑い種であるが、

唯物論で考える限りにおいては、

「毒親」系の「親ガチャ」は不謹慎でもなんでもない。

物事はいろんな方向から見るべきである。

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