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清く、正しく、明らかな、わたしの声を

分かる、とはなんだ。

だれかにじぶんの気持ちを伝えたときに、分かる、と言われると違和感を覚える。

「わたしの気持ちはだれにも分からない。
わたしでさえ分からないもの、他のひとに分かるものか。」

わたしは、わたしの心を神聖なものだと思いたくて、何処にあるのかすら分からないその心とやらを、自分の心を、だれにも見つけてほしくないのだ。

一方でわたしは、甚だしく情けないことに、だれかからの「分かる」を求める瞬間も持ち合わせている。

「なぜ分からない?
こんなにも明らかで、正しく、清らかなわたしの主張を、理解できないのか?」

分かるはずがない。分かってほしい。

相反する気持ちのなかで、わたしはまた、わたしの心を見失う。
すこしだけ近づいたかのように感じていた心が、またわたしから離れていく。

わたしたちには、だれの気持ちも分からない。

分かる、なんて言えない。

分かる、とはどう判断すればいい?

分かる、とは何?

分かる、が分からないのに、分かるとは言えない。

心が頷くことを許してくれないかぎり、わたしは頷けない。


だれかがわたしに言った。

「分かる気がするよ。」

小さな小さな、ほんのすこしの違いに過ぎない、けれど、わたしにはその一言が、まるで道標のように、照らされて輝いて見えるのです。

わたしは、そんな小さなことだけで、生きていけるのです。

分からなくても、生きていられるのです。

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