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プレゼントなんていらない

わたしは中学生のときに、めちゃくちゃ芸人さんにはまってまして。

それで、DVDがほしいなって、なけなしのおこづかいをちびちび貯めてたんですよ。

そしたらそのDVD、誕生日プレゼントにおばが買ってくれて。

わたし、それを泣きながらお店に返しいったんですよね。
まあそれ結局返品できなかったんだけど。
今も持ってるんだけど。

とにかく、自分が欲しいものは自分で買いたい、っていう気持ちがとにかく強かったんですよね。

特にその当時は「DVD買うためにお金貯めている」っていうのもあったから余計に。
プレゼントをもらってうれしい!より、目標の達成を邪魔されたっていうのが大きかった。

昔から、あんまりプレゼントをもらうっていうことに対して、あんまりいい印象がなかった。

その人の時間とかお金とかを自分に使っていることとか、もらっても嬉しいか分からないプレゼントをあげる/もらうこととか。

もしあげても喜んでくれなかったら。
もしもらってもわたしの全然趣味じゃなかったら。

あげるのも、もらうのも、どっちも、悩みが多すぎて、プレゼントのやり取りがとても億劫だった。

プレゼント「何をもらっても嬉しいよ」ってよく言うじゃないですか。

まあたしかに「いやだなあ」と思ったことはないけど、でもどうせなら本当に必要なものをあげたりしないと、結局石鹸も飾って終わったり、なんとなく使う頻度の低いハンカチになっていったり。

そうなっていくプレゼントに罪悪感を感じているその瞬間もつらくて。

そのくらい、くれた人に対しては愛とか情とかあるんだと思う。
誰がいつくれたか、覚えているわけだからね。

テリトリー意識が強いんだと思う。

これは自分のもの、これは誰かがくれたもの、っていうのが、ずっと線引され続けている感じ。

いつまでも自分のものにならない。
その違和感が、プレゼントにはある。

最近はサプライズ回避することで、準備対策しています。

何が欲しいか聞いてくれたり、色々、友人には別のお手数をかけていますが、お互い、どうせ手間がかかるなら、最高の状態を目指すための手間をかけたいじゃないですか。

逆に、サプライズを希望されれば自分もそのために色々ガンバリマス。

まだ不安だからいっぱい先に予防線張っておくんだけど。

それでももらったものは「嬉しい」や「〇〇がくれたもの」や「あの日にもらったもの」っていう付加価値がついて、やっぱり「わたしのもの」とは違うベツモノのまま。

ただ、それが、昔みたいな違和感じゃなくて。
いまは「価値」と思える自分に、変化を感じながら、わたし、人へのプレゼントを考えているところです。

志邑でした。


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