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風化しないもの

人は本当に現在を生きる生物である、とつくづく思う。かつて、友人と精魂注いで取り組んでいた様々な物事、行事は、たとえそれが一年前のものであったとしてもすでに風化し、劣化している。これは、端的にその時一緒に切磋琢磨していた人々と現在は交流を絶っているからだろうか。その物事に連関していた当時の人々との継続な交流は、過去を過去のものとしない、つまりは記憶が風化するのを防除する作用をあるいは果たすのかもしれない。だとすれば、そういう自身が真摯なる気持ちで参画した行事、その時の心持ちはその交流が途絶えた瞬間、時間淘汰の砂嵐に飲み込まれ、やがて朽ち果てていくのではないのだろうか。そうして風化した過去を人々は『思い出』と呼ぶのだろう。実際、思い出話は日々連続的に交流が継続している中で行われるものではない。昔よく交流していた人々と偶さか再会した時に華開くものである。
その時の真摯なる気持ちは、それが強ければ強いほど将来への恐れを惹起する。つまり、未来ではその真摯なる心持ちに恥じない行為をしているか。その真摯なる気持ちに見合った人間に果たしてなっているかどうか、という恐れである。今風に言えば、現在の投資に対して、将来それに見合ったリターンを受け取れるているどうか、というような経済的な心持ちというとわかりやすいかもしれない。では、その真摯なる気持ち、精魂の注入に足る自身の繁栄を得ることができているか、という問いに対して、是か否か結論づけられる裁定は果たして可能なのだろうか。結論づけるならば、是か、あるいは裁定不可能のいずれかしか存在しない(つまり否が存在しない)のである。なぜなら、裁定が可能であることの最低条件は、その時の真摯なる心持ちが劣化せず、依然持続しており、その時の真摯なる自身と今の自身を比較することができることに他ならないのであるが、真摯なる心持ちが劣化していないならば必ず是という裁定が下され、逆にそれに見合った人間になっていないとすれば、その真摯たる気持ちは絶対的に風化し、そもそも裁定不可能になっているからである。つまるところ、裁定により否がなされうる場合よりも先に、そもそも裁定不可能な状態が到来するわけであり、逆に裁定が可能である場合は、大方真摯なる気持ちは劣化せずに自身に火をつけているままであり、必ず多くの葛藤をはらみつつも是という裁定を下せるということである。真摯なる気持ちは実際のところ、運命論的にあらゆる結末を受け入れるよう人を強くするからである。
こうしてみれば、人はよくできていると思われる。もしも、真摯なる心持ちがあった『あの瞬間』をありありと再体験する能力が、人間に皆備わっていたとすれば、幾らかの人間(特に今の自分を容認できていない人間)は今とは比べることができないほど悶絶することであろう。否定的な自身にさらに追い討ちをかけるが如く、『否』の判決を下すことはあまりにも残酷なことである。
さて、では真摯たる気持ちを劣化させないようにするにはどうすれば良いのだろうか。それは、必ずその気持ちが盛んな時に、孤独なる時間を用意することである。前述したように、過去が風化する要因は人間関係の変化である。であるならば、そもそも流動しない人間関係に連関した過去が最も風化しにくいのである。しかし、人との関係は常に変化するのでそのような過去は存在し得ないようにも思えるが実はそうではない。唯一流動しない人間関係、つまりは自分、私、が存在する。だから、ある意味では、唯一風化に耐えうるものは個の経験である。私だけが体験した真摯なる経験は自身がその守り手として一身に引き受けるから、容易には風化しない。

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