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秒速5センチメートルの恐ろしさ

 この映画は、拗らせた恋愛映画であるという見方が一般的だと思うし、実際、それには違いないのだが、ただの恋愛映画ではないだろう。この映画の恐ろしいところは、明里という人物は深遠なもののメタファーであり、その表現の筆頭候補が『恋』であって、これが『夢』とか『純愛』とか『美』とか『願い』とか『世界平和』とか『道』とか『天才』とか、要するに、なかなか手に入れるのが難しい、もしくは到底手に入らない、ある人間を永遠に捉えるポテンシャルを秘めているものであれば、何にでも当てはまることであろう。結局

その瞬間、永遠とか心とか魂とかいうものがどこにあるのか、わかった気がした。13年間生きてきたことのすべてを分かちあえたように僕は思い、それから次の瞬間、たまらなく悲しくなった。

というセリフが、この映画において主人公・遠野貴樹が深遠なものに囚われる原因となったクオリアに他ならないのである。大体、こういうクオリアを掴んだものは人生において真に成功する場合が多いし、そうあるべきである。逆に、こういう感覚を経験したことのない人間は、早々にその道から外れているだろう。また、その道を無事歩むことができた人間ならば、そういう(歓喜の)(運命的な)瞬間を経験したことが必ずあると言うだろう。ただ、逆にそれを経験したからと言って、必ずその道を無事に歩ける保証はないのである。そして、おそらくその道に志した人間の大多数は、このクオリアを経験し、自分は運命的に選ばれた人間であるという、一種の幸福な使命感・陶酔感に囚われるものの、道半ばで尽き果てるのである。それは運もあるし、実力も関わるだろう。遠野貴樹の場合、地理的な隔離・離別と言う意味で運がなかった。

 結局、メタファーの捉え方次第で、この物語のストーリラインを踏襲すれば、天才になり得た凡人のストーリーに作り替えられる。

 主人公Aはピアノ(音楽)と相思相愛で、実際、稀代のピアニストになりうる才能がある。彼は、ある日のコンサートでラフマニノフのピアノ協奏曲第2番の演奏し、とても常人には、(そしておそらく未来の自分でも)感じることのできない彼特有の神懸りな体験をする。コンサートは拍手喝采であった。その日の演奏は白昼夢にも近く、神秘的な類のものであった。しかし、それは何か破滅的で不穏で刹那的な甘美さを秘めるものであった。実際、その数日後、事故により手指がほとんど動かなくなり、リハビリして少しは弾けるようになったものの(ここは映画の手紙のやり取りと対応する)、二度とはまともに弾けなくなり、ピアノとの別離を余儀なくされる。彼は、ずっとあの日のラフマニノフを忘れられず、ピアノとの本当の再会を夢見る。しかし、もうピアノとまともに見えることは叶わない。しかるに、彼はあの日のクオリアに囚われたままである。時折、気晴らしに別の分野に触れてはみたものの、愛を捧げたピアノを忘れることができない。しばしばプロのピアニストになることができた自分を想像する。そうして、ずるずると時がすぎ、ピアノや音楽とは全く違う分野に身を置くこととなったが、結局、自分が今何を求めて、何に対してなぜ努力してきたのか、よくわからなくなり、無気力となり、堕ちていく。そんな時、ふと数年ぶりにラフマニノフのピアノ協奏曲第2番の演奏を耳にする。かつてはこの曲を聞くたびに、クオリアへの渇望を想起させ、苦しかったが、その時のラフマニノフの演奏があまりにもクリアだったからなのか、あるいは時の流れのせいなのか、彼はもうかつてのクオリアを忘れていたことに気づく。そして、まっさらになり、もう一度ピアノに対面することとなる。不器用な音だけが響く。彼は、憑物が落ちたような顔になり、ピアノに対してさよならを告げた。

 これは、秒速5センチメートルとほとんど対応させて書いたものである。明里がピアノであり、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番が雪原でのキスである。手指が動かなくなる事故は、引越しである。別の分野への接触はサーフィンの女の子であり、最後の不器用な演奏が別れの踏切である。秒速5センチメートルは、そういう深遠な存在の希求とその挫折のストーリーの凡例ともいえる。芸術がほとんど一部の人間にとっての深遠な存在であるのに比べ、恋愛は人類普遍(大多数)の深遠な存在であり、多くの人間がその当事者になりやすいから、深遠な存在を女性に、その希求を恋愛に据えたにすぎない、と見ることもできよう。そのため、私は恋愛に差して興味がない人でも、秒速5センチメートルは刺さると思うし、逆にそういう人間の方が作品をより抽象的かつ汎用的に捉えて、思考の糸を毒のように巡らせるかもしれない。メタファーを通して、具体的ではなく観念的な毒性がこの作品にはあるように思える。

 何はともあれ、新海誠は恋愛にスポットを当てて、深遠な存在に対する挫折を1時間程度のショートストーリーに収め濃縮し、提供した。その濃さ故に、秒速5センチメートルは、新海誠の中でもとっつきにくいもののように思われがちだが、私はむしろ逆のように思える。『君の名は』や『天気の子』は、泣かせどころのギミックやエンタメ的なある種押し付けがましい機械仕掛けのストーリーラインが目に付き、アニメーションも優美だが、装飾過多のようにも思えて忙しない。

 それに比べ、秒速5センチメートルは、アニメーションの美しさはもちろん抜群であるが、前述の作品に比べ、かなり簡素である。装飾的な面がほとんどない。そういう意味で、描写の無駄のなさ、わかりやすさについては圧倒的に秒速5センチメートルに軍配が上がり、一見とっつきやすいようにも思える。それゆえに、人がなぜその簡素さに比して、この作品を厄介に考え、忌避するのかは一考する価値がある。結論を言えば、おそらく、この頃の彼があまりにも表現に対して誠実だったせいだろう。誠実さとはつまり彼なりの王道を求めるということであり、実際、上述したようにストーリーも汎用が効くという意味で王道であった。しかし、その王道を、その誠実さとアニメーションの才能でもって、剥き出しのまま提供した。武器に喩えるならば、近年の新海誠の作品が、あれこれと装飾が加えられ、華やかな鞘に恭しく納められた日本刀であるのに対して、秒速5センチメートルは、丹念に研ぎ澄まされ毒を塗られくっきりと刃文が浮き出た暗殺用の短刀である。ゆえに恐ろしさという点では、『君の名は』や『天気の子』よりも、『秒速5センチメートル』の方が圧倒的に優れているのである。あえて言えば、無垢の恐ろしさである。中肉中背の丸裸の青年から思わず目を背ける拒絶感である。

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