見出し画像

ラベリングが許されない時代

個人に対するラベリングが許されない時代になってきた気がする。フェミニズム運動というのは、女性の地位向上というのもそうだが、根本的には、個人を男や女というラベリングではなく、個人そのものとして見るべきである、見て欲しいという根源的な欲求の顕れであると私は思っている。この根源的な欲求において、男女の統計的有意差の研究はあまり意味をなさない。統計は個人を語るものではないからである。だが、個人を別の個人が知り尽くすのもまた不可能ではないか。他人が初対面で触れ合う別の個人を測るには、その人の表面上の性質を絶対に見ている。就活がいい例である。学歴、性別、資格、容姿。個人の能力の査定の最も効率的な手段としてこれら表面上のラベリングが行われる。例えば、性別の場合、女性は男性とは違って、妊娠、出産、それに伴う産休必要性というハンディキャップを持っているという風に、女性一般に備わる生得的な能力を仕事遂行に対して不利な能力として見ることもできてしまう。(まあ、妊娠したら女性も男性もどちらも産休をとるべきというのが正論であり理想的ではあるが、そうはいかない企業もあるだろう)もちろん、それがハンディキャップにならないよう社会は進んでいくべきだが、どこかで男女比の歪みの是正は頭打ちになると思う。生得的な差には他にもある。統計的には、女性よりも男性は統計的に工学系に多く進む傾向にあり、女性よりも男性の方が筋肉量が統計的に多い。出世欲も高い。逆に、女性は男性よりも自殺率が低い。

 個人的には、議論は男女比が揃っていた方が議論が加熱しすぎず、円滑に正しい方向に行く場合が多いと思っているが、それはなんとも言えない。何はともあれ、初対面の場合、その個人が詳細にわからない以上、これらの情報を判断材料として用いざるを得ない。性別というのは個人を測る上で普遍的で最も効率的なツールだったのだろう。だが、統計の分布のはずれに位置する人間は、ラベリングバグにより、大きな歪みと劣等感と不安を抱えることとなる。個人に対して統計的な知識は全くとして福音にならない。

 また、こういう表面的なラベリングを通して、そのラベリングされた人間がおそらく知っているであろう、持ち合わせているであろう共通話題や共通価値観、共通倫理観、共有通念を根底に、コミュニケーションの入り口を作ってきた人間は結構多いと思う。〇〇なら〇〇しているだろう。××なら××を知っているだろう。男なら〇〇。女なら××。案外、ラベリングから推測されることを共通認識として使い、コミュニケーションが効率化されていた面もあったとは思う。女性ならこれは嫌がる。男性ならこの話題はおっけー。そういう共通の何か、共通の倫理観(何に価値を置くか)や共通の通念を持ち合わせているという安心感は今やもうない。人と会話するとき、そういう配慮をするあまり、まるで、地雷原を歩いている、そんな気分に陥る人も中にはいるのではないか。そもそも、我々は容姿からその人間が男女どちらの性か決定づけることさえ厳しくなってしまった。結局、ラベリングではない、長い時間をかけて形成する個人的な付き合いというのが重要な気がする。ラベリングによっては育まれない共通認識、共通価値観、共有通念は絶対的なものである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?