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「お寺の人こそまとめてみよう!」~寺報作りに見る可能性~(BM5)

5年前にお寺の未来主催の「伝わる寺報教室」を受講した。通信教育だったので、通うこともいらず自分のペースで参加できた。いまだったら、zoomなどでやり取りしてもっと楽しいかも。。。

講師、杉本恭子さんによる「書く」ことに関するワークは、とても楽しかったし、今でも役に立つことが多い。

今春始めた、「行いがわたしを導く時間」のチラシに載せた文章も、伝えたいことを一気に書いてみるという杉本さんから教わった手法を使って書いている。↓

長くなった文章は、あとから削っていった。仏像を削る?ようなことか?

最近子どもが教わってくる作文の書き方とは真逆だ。

枠組みに文章を入れることも大切な勉強かもしれないが、私には、この伝えたいことを止まらずに書くという練習はとても合っていたと思う。

それまでも手探りで寺の新聞は作っていたものの、講座を受けてからの新聞は風合いも中身の組み立て方もかなり変わった。

そこら辺の内容については、今年の3月号の「大法輪」での取材でもお答えした。(残念ながら大法輪は休刊になるらしい・・・)

下のページの2015年2月以降と、その前をくらべると目前だと思う。

寺報教室によって変わったのは文章の書き方だけではなく、寺報の組み立て方なども教わった。企画の立て方や、記事にした時の見せ方、配置についてなど、自分ではとても気の付かないことを指導してしただいた。うちは年に2回のペースなので、受講後5年で10回の発行をした。

とりあえず継続できていることの一番の要因は、枠組みがあることかなと思う。型があると、そこにどんな記事を入れる?ということから始めればいいので。講座受講以来、「紙上体験、正法寺」がメイン記事だった。それも記事がたまってきたし、今年から新しい講座も始まるので、今回からは「行いがわたしを導く時間」についてがメイン記事になっていく。

新しい講座を思いついた要因はいろいろあると思うけれど、寺報を継続する中でお寺の行事についてみんなで確かめながらまとめて来たことも、関係していると思う。もうそろそろ違う方向も必要だよね、と見えてくるものがあった、とも言える。

お寺の人は、外を知らない、というのはよく言われる話。

具体的にそれはどんなことだろう?と思うに、「やっていることをまとめない」はあるかもしれない。お寺にいると「まとめて提出してください」とか、「報告してください」などは、そうは言われない。

でも、どうだろう?一般的にはそういうことは結構なされている。当たり前のように。私は教員をしていたこともあるが、人にどんな授業をしたかとかを見せるには書くしかない。何か新しい企画を思いついたら、書いて上司に知らせなきゃならない、ということは当たり前だろう。

そういう意味でも、寺報は役に立ったところがると思う。人に伝えながら、発信側も状況をまとめて、客観視していく。このnoteアプリもそんな要素がふんだんにある。

「お寺の人こそまとめてみよう!」かもしれない。私も続けていきたい。

今後お寺の坊守【BM】を盛り上げるための資金にいたします。