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ショートショート:「すばらしき新世界」

 星新一の「余暇の芸術」という作品に見られるように、20世紀の人々は、未来の世界では機械化により人間は労働から解放され、芸術などの余暇活動に勤しむようになる、と予想していたようである。ところが21世紀の現在、AIの進化により、芸術活動の方がむしろ機械化されそうになっていて、その反面、介護や運送などの肉体労働を、人間がやり続けるということになっている。どうやら、(20世紀の人々の未来予測とは裏腹に)かつては「人間にしかできない」と思われていた頭脳労働の方が機械との親和性が高く、その場の状況判断が必要になったり、物理的に身体を動かさなければならない肉体労働の方が、機械化しづらいようである。

 このトレンドは21世紀の間にますます加速していき、2100年頃には、おおよその頭脳労働が機械されてしまった一方で、肉体労働へのニーズは、いまだに残り続けていた。ほぼすべての人々が、かつては「単純作業」とか「3K」とか、忌み嫌われてきた仕事に就くことを余儀なくされていた。いや、実際には2050年頃にベーシックインカムが導入されていたので、最低限の生活は保障されていたし、全員が全員そういう肉体労働をしなければ社会が回らないということもなかったのだが、人間にとって、退屈は一番の大敵である。

 その上、余暇を楽しむための活動のはずであった芸術も、超高性能AIにより、人間が作るよりもはるかに質が高いコンテンツが量産されるようになり、創作活動によって人間が称賛や名誉を得ることは、とっくの昔に不可能になっていた。だから、いまだに機械化ができていなかった肉体労働こそが、退屈を紛らわし、人間が社会に参加する感覚や、他者からの称賛を得るための、唯一の手段になっていたのである。

 ここまで世の中が変化してしまうと、学校教育も「何の意味もないもの」とみなされるようになっていた。もはや勉強しても、良い給料の職が得られるなどの世俗的なアドバンテージがあるわけでもないし、人間がいくら知力を鍛えたところで、頭を使うことが必要な活動はすべて、機械にやってもらった方が手っ取り早くなっていたのである。あれほど熱心に受験勉強に励んでいた人々も勉学への関心を完全に失い、学校制度自体が風前の灯になっていた。人々は、そんな環境でも勉強を一生懸命にする人を、「変人」と蔑むようになっていた。

 人々は、芸術を通じて自己を表現することも、勉学を通じて自己を高めることも、すっかりしなくなっていた。唯一、スポーツだけがそれら自己表現や、自己成長の欲求を満たすことのできる場だったので、肉体労働の他の余暇の活動として、スポーツは残り続けた。才能がある人はスポーツに打ち込み、自己表現や、自己成長の欲求を昇華させることができた。

 ところが、2150年頃になると、AIが立法の仕事までを完全に賄うことになり、スポーツを禁止する法律を作ってしまった。AIは、「スポーツは人間の競争心を掻き立て、攻撃性を助長する、人間にとって有害なものである」と結論づけたようだった。もちろんこうなると、人間も黙ってはいられないはずだった。しかし同時に、人間の競争心や性欲(性欲は、異性を獲得するという競争のもとになる)を抑える薬を摂取することが義務化され、牙を抜かれた人間は、この法律ですらも黙認するようになっていた。

 性欲を失った人間の生殖は、バイオテクノロジーを用いて、試験管の中で行われるようになった。とはいえ、もう有能であることに意味もなくなっていたので、人は気に入った人と、自由に生殖を行うようになっていた。

 この頃になると、(競争がないので)経済的な格差もすっかりなくなり、人々は残りわずかになっていた肉体労働をシェアしてほどほどに労働に励み、余暇はAIが作った質の高い芸術的なコンテンツを鑑賞したり、他の人々と気楽に語らったりして、平和に過ごすようになっていた。

 その延長線上で、2200年頃には、昔の人が見たらこれがユートピアなのか、ディストピアなのかはわからないが、すべての人間が、あらゆる意味で平等な社会が、形成されることになった。

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