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さようなら私の半生、思い出。

実家の猫が死んだ。

もう長くないのは知っていた。だって20歳は優に超えていたし、病も患っていた。でも、一生この世界に存在し続けてくれると思っていた。

知らないふりをした罪と後悔

病が重いことも、生きていることが奇跡と言っていい年齢なのも知っていた。でも知らないふり、気付かないふりをしていた。
私にとって実家は苦しくて重い、考えるだけで頭が回らなくなるような場所。でもそこで生きていた彼女のことだけは、想っていた。
泥棒が忍び込むように、家人のいない隙を見計らって会いに行った。
会うたび、見るたび、彼女は確かに死に向かっていた。
太っているといったこともある身体は細くなり、家中を駆け回った足も遅くなって、眠っていることが多かった。
その姿があんまりにも儚くて、直視できなくてより実家から足が遠のいた。
逃げてしまった。

親からの憂鬱な着信

ある日、何回か電話が来ていた。その日は抑鬱状態が酷く、会社すら行けていなかった。気がする。もう記憶が曖昧になっている。
翌朝、家を出る直前のことだった。着信と、メッセージ。
「もう死んじゃうから最後に」頭が真っ白になった。こんな時に会社に行かなくちゃ、なんて思いながら電話に出た。
ビデオ通話越しに見た彼女は、「ああ、死ぬんだな」と思う姿だった。
最後のとき、私はまた看取れない。苦しいのは彼女なのに、絶望しながらなにか声をかけたと思う。

声を聞きたくて、耳を澄ましても、ガチャガチャとやかましい親の声で上書きされて、きみの声がわからない。
君がいなくなってからそんなに経っていないのに、きみの声を思い出そうと想ったら親の声が、ノイズが脳みそを駆け巡る。

生き物ではなくなった君

その日が命日となった。仕事に行った。昼休みに訃報を聞いた。
何事もないような顔で仕事をしていた。少し泣いたかも。ランチミーティングもあったけど、明るく振る舞った。もう帰ってしまいたいのに、消えてしまいたいのに会社にいた。
退勤後、特急に乗って君に会いに行った。身体がまだあるうちに。
花を買った。祖母の葬儀で使ったようなものと同じ、黄色い薔薇。小さな花束を作ってもらった。
箱の中の君は、目を開いていたけれど、生き物ではなくなっていた。
思っていた何倍も細くて、小さかった。持ってきた花束よりも小さくなっていた。

君の身体は冷たかった。死に際の祖母がしてくれたように、手を握った。
君の身体は硬くなっていて、うまく握れなかった。
君の瞳は少し濁っていたけれど、美しいイエローだった。

物になった君

数日後、火葬を終えた君に会いに行った。また泥棒のようにコソコソと。
骨壷は大きかった。その中の物は、とてもとても小さかった。
思ったよりも残った、思ったよりも残らなかった。どちらも考えて、駅で買った缶に壊さないように君の骨をできるだけ詰めた。
その後、納得顔の母親と言い合いをして、逃げるように帰った。

溝と諦め

私にとっての彼女は、家人たちが思うよりも大きな存在だったんだ。
そして私にとってのこの別離は、どれも納得できなかった。
自業自得だろうが、我儘だろうが関係ない。
ならやれよ、そういうことを言いたげな家人。
できるものならやっている。やっているし、これが現実なのも努力不足なのもわかっている。
だから、あんな画面越しのお別れで、ろくに彼女の声も姿もわからないようなお別れで、「役目を果たした。」という家人を許せない。
実は親とはうまくいきつつあった。でもそれはやはり、形だけだったようだ。私がこのように嘆くのを、そして精神病であるのを責めた。
もうこの人たちとは永遠に相容れない。と理解した。
そもそも実家だって、彼女がいたことが唯一の心残りだった。それがなくなった。もう、私達は終わったんだ、と東京行きの電車の中で思った。

実家で生きていた猫は、祖母との思い出そのものだった。
祖母が生きていた証だった。
彼女が生きているから、祖母が生きていたと思い出せた。彼女を交えて祖母ととりとめのない話をしたこと、彼女が祖母を一番大好きだったこと。
祖母との記憶を忘れてしまうギリギリをつなぎとめてくれていた。

私とほとんど年の変わらない猫だった。もう君は、骨の香りしかしない。
骨壷を買った。そこに君はいる。君の毛の香り、祖母の香りはもうしないけど、骨壷を開けて感じる骨の香りで、君を思い出すのだろう。
最悪の思い出と一緒に。悲しいけれど、これが現実なんだ。

私に幸せは訪れない。やってくるのは別れと悲しみだけ。君がはっきりと突きつけてくれたから、宙ぶらりんで、何も考えないで、今日もただ存在している。終われる日を待ちながら。



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