「アジア出身」に親近感を脳が勝手に感じる不思議。良いのか、危険なのか。
プロゴルファーの松山英樹選手が米国の試合で先週末に勝ち、生涯9勝目になりました。米国プロゴルフ競技は生涯でも1勝するのがなかなか大変です。他のスポーツもそれぞれに勝つことは大変ですが、ゴルフの場合、一流と言われても、なかなか勝てません。超一流の松山選手も約2年ぶりの勝ち。なので、1回の賞金が多額です。今回は6億円。円安もありますが、すごい額ですね。
で、この時、韓国の選手が過去に生涯で8勝していたので、アジア出身選手で一番になったのです。「アジア勢最多勝利」というニュースがあちこち。
この「アジア勢」という括り、あえてそう言う必要はあるの?と一瞬思ったが、ま、当たり前か。日本で一番よりも、アジアで一番の方が、希少価値は高まる。
残念ながら世界で一番ではないから(タイガー・ウッズ選手が82勝ですから)、その次で考えられるのはアジアで一番、ということ。小学校で一番、区で一番、市で、県で、関東で、全国で一番、と同じ。松山選手の今回の9勝目をよりスゴい偉業として伝えるために、地理的に拡げた。
話は変わって、米国で活躍するオリジナルには香港(中国)出身のコメディアンの方が「アジア」をネタ、にしている。BTS(韓国人)の大活躍を自分と比較し、自分を落として笑いをとる、両親の習慣を「アジア人」の習慣として笑いをとる。おそらく底流には米国の多くが日本、韓国、中国などアジア諸国の違いがあまりわからない、ということの模様。
そして、自分はアジア人だ、アジアの方があちこちで大活躍し、アジア出身として大変嬉しい、と繰り返す。
上述の松山選手の偉業を紹介する「アジア勢」と、このコメディアンの「アジア人/アジア出身」は明らかに違う。が、こちらも理解できる。
この「アジア出身」という括り、日本にいると余り感じないが米国(アジア以外)に行くとなぜか自然にそういう気持ちになる(ボクの場合)。米国留学中にも仲良くなったのは韓国人とインド人。米国人とも仲良くなったのだが、アジア出身のひとには最初から「近さ」を感じた。同じ留学生でもフランスやアラブ、南米の方には感じない「近さ」・「仲良くなれる相対的な可能性の高さ」を勝手に感じる。
逆に考えれば、日本に居る西洋ご出身の方々は、ボクが米国で感じたように、西洋に該当しえる人に「近さ」、「心地良さ」を感じ、「自分達」を感じるのだろうか。。。
肌の色が影響しているのかもしれない。米国や欧州では肌の色が違う人々が普通に同じ国の市民として混在する。が、アジアは原則的にどの国も肌の色は類似しがち。アジア出身は括りやすいのかもしれない。
あるいは、言語かもしれない。例えば、日本に居るフランス人は、出身国や肌の色ではなく、仏語を話す人に「近さ」・「心地良さ」・「自分達」を感じるのかもしれない。
いずれにせよ、ホームでは無いどこかに居るとして、同国出身の人に多々出会える可能性は低いので、範囲を広げ「自分達」を探してしまう。それが人間。自然に、勝手にそうなる。アジアとするのか、欧州とするのか、言語なのか、肌の色なのか。だから、逆に、小さな所属で「自分達」に偶然出会うと大喜びだ。例えば、米国の田舎町で出会った2人の日本人が「えぇ、札幌出身なの。私もよ!」。
ここに悩ましいことが起きる。何らかの生活の場で「自分達」なる関係は支え合う仲間として大切だけど、それ以外を「自分達では無い」と定義してしまうこと。でも、どうしようも無い。意図的ではない。なぜか脳/心が勝手にそう思う。視覚的に「あ、違う肌の色だ!」、聴覚的に、「あ、理解できない言語だ!」。だから「自分達」ではない。一瞬でそう思う。怖いけど止められない。
ならば、「違い」に沢山触れて、慣れて、「違う」と思わないように変化(成長?)しないと!そう思ったのです。あるいは「違う」と思うけど、「違い」を批判や差別につなげない知性を持つことがが大切だ、と思ったのです。松山選手の9勝目に喜ぶと共に、こんなアレコレを考えただけでした。。。
(読んで頂きありがとうございます。
(最近出会った素敵な気づきフレーズv7_32)
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