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悩む選択 v2-50:求めるは行動の自由 vs 思考の自由こそが誰も止められない自由

今日の悩み:
A.本当に自由な行動なんてできない。でも、思う・考える自由は誰も止められない。思考の自由を喜ぼう

B.自由は行動の自由があってこそ。自由に行動できないと意味がない。

家庭、職場で、人生、悩ましい二者択一、二律背反、二項対立ってあります。「ANDの才能」を発揮し、両立できるとよいけど、でも、一方を取らないといけない場面も。ボクともぐらさんは会社の仲間。やさしいひとになり、そうあり続け、やさしいリーダーになり、組織を強くする、という夢を持つ。やさしさを学べる絵本「ぼくモグラキツネ馬」から互いをあだ名付け。この頃は、組織での二者択一の場面で、どちらであるべきかを考え中。

家族がいて、会社で働いて、社会の一員で、資本主義でお金を稼いで生活して、そんな人生で何もかも自由なんて、当然、無いですね。

社長からあいつをクビにしてください、と言われた。え、突然。。。反対した。だって根拠か希薄だし、事前の注意はないし、日本の労基法下ではなかなか難しいことだ。というか、そもそも営業マンの問題ではなく製品の問題と思っていた。ありがちな開発・製造と営業の部署間の争いではなく、それを超えて、本当に製品の問題と思われていた。全社で。

でも、社長いわく、うちはドライです。非情です。私はもう決めました、どのこと。彼は給料が高い。けど、営業成績は皆と同じだ。やる気も最近うせている。即戦力のはずが戦力ではない。気合い入れて本気でやらないとこうなるよ、と今のうちに社内に見せつけたい、開発・製造は終わった。営業があとは勝負なんだ、とのこと。

社労士と相談して、「あいつ」と言われた彼と一緒に帰って、彼の家の近くのカフェでいろいろ話しした。彼が辞めたくないなら、どうやって辞めなくていいかを一緒に議論して、対策しようと思った。社長も納得するような何かを模索しようと。

でも、彼から、実は辞めようか悩んでいた、とのこと。こんな社長がいる、こんな会社にいてもしょうがない、彼の夢も実現できないし、最近社長が求める営業スタイルをやりたくない、とのこと。面接のときに言われた方針とも異なるし、営業への締め付けもすごくなってきた。で、もめずに、辞めまーす、となった。3ヶ月間分の給料と引き換えで、”自発的”に辞める、ということで。その日が最後。

カフェを出たら、突然の豪雨で、彼に家まで車で送ってもらってしまった。やさしいひとだった。蓋をあけたら、彼も悩んでいて辞める決断するに良い機会になったとのことだけど、嫌な思い出だ。

組織にいて、一番嫌な仕事の類い。「ありがとう。よくやった。」との社長からのコメントですが、「社内にみせつけたい、って思いは多分外れますよ。反感が増すだけですよ。」と繰り返したけど、大丈夫、とのこと。ちなみに、こんなを繰り返すひとだったので、当然、大丈夫ではなく、自滅。

組織という不思議な無形の想像物は、自分じゃない自分になぜかさせられる。ボクが弱いだけか。。。抵抗する選択肢もある。他のひとにやらせる選択肢もある。ボク的には、そんなときでも、自分は違う考えをしている、行動は従っているが、自分は違う考えだ、というのが心の支えで割り切っていた。

自分の発言はなんとでもいじれる。だから、「言葉ではなく、行動でそのひとを見よう」、という格言はその通り。だから、行動は自分らしく、そして、プライドを持った行動、をしたい。。。

ただ、悩ましいのは組織では、自分が見られている範囲が全て、ではないはず、ということ。自分の社内に関する知識・情報も当然十分ではない。自分と彼の関係と、社長と彼の関係は異なり得る。他の仲間ももしかしたらあいつはいらねーと思っていたかもしれない。株主でも社長でもない自分が会社の責任を全て負えない。。。

だから、だいたいは指揮系統に「従う」を選択する。だからビジョンや価値観が合う上司に出会えるといい。

こうして組織では、行動の自由は、限定される。だから、思考の自由を拠り所にしている。行動の自由にのみ自由を求め、それのみが自由だと思うと、それはなかなか難しいので、つらくなりますね。

とは言っても、当然、自分が自分の身体を動かしている行動が、自分の意思と異なってばかりいると、そりゃ疲れる。そんな組織は去れば良いかと思うが、とは言っても、程度の差はあれ、頻度の差はあれ、組織において行動の自由は束縛されます。

だから、思考の自由に気づくことは、落ち着く効果を持つかと思うのです。

割り切るとか、諦めるとか、関心を持たない、ようにしようという思考ではなくて、社長に「はい」と言いながら、辞めなくても社長と彼が一定のレベルで合意できる妥協点はないかな、とか、第三の道はないかな、とか、彼との議論で何か新しい展開は模索できないかな、と思う自由を持って、臨むということ。こういう思考をするのは自由だし、彼と会話しながら頭の中では実は模索しているのも自由だ。

もちろん、ひとは思考を自由にしているのだけど、思考は自由に何でも可能、ってあえて再確認する、が大切かと思う。不平・不満・異論・反論・反対を述べるも大事。自由に思考して新たな道を考えてみるのも大事だ。

ただ、思考にはクセがあるし、客観的と思っているけど主観的だったり、自分の価値観、ポリシー、知らず知らずの教育や習慣、環境に縛られている。ので、この点にはご注意を。気づかないけど、自由のようで自由って難しいね。なかなか無いのかもね。自分が思っているだけで。。。

note書いたし、好きなひととデートしている空想をしようっと。Dream Bigということで。思考が自由にできるっていいですね。

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