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悩む選択 v2-89:ルール・規則を守った/破ったはひとが介在せず機械的に判定すべき vs ひとの恣意・主観的もあり

今日の悩み:
A.ルール・規則に関しては、そこに存在するのだから、判定するひとが恣意的・主観的・感情的になったらダメだ。判定するひとが正しく判定しないとルール・規則の意味がない。ひとをなるべく介在させず機械的に判定すべき。

B.ルール・規則は破るべきものだし、変更すべきもの。且つ、今あるルール・規則を判定する地位・権威のひとが恣意的・主観的に守った/破ったを判断/解釈する余地を一定、残すべき。それが許し合えるひととひとの社会につながり、良いような。。。

会社の同僚のアイム君といつものカレー屋さんへお昼。カレー屋の店長さん、サッカー好きです。中学まで(あれ、高校までだったかな)サッカー部。最近はフットサル。ドイツ戦とコスタリカ戦はプロジェクターでカレー屋の壁にライブで試合を投影し、お客さんと盛り上がったとのこと。ドイツ戦はAM3時まで帰らなかったけど、コスタリカ戦はみんなすぐ帰っちゃった、って。。。

アイム君もサッカー通。スペイン戦は早起きして全部見た、とのこと。あれをライブで見たら、もうハラハラドキドキですね。ボクもカレー屋店長も起きれず。。。

で、VARの判定の話に。Video Assistant Refereeですって。ボクはサッカー詳しくないのですが、ボールが地面に付いていても、ボールの一部(地面についていない部分)が線上にかぶっていれば、サッカーの場合はタッチライン(オンライン)で、競技続行です。野球とは違いますね。野球はボールの地面についた場所がラインアウトしていたら、一部が上から見た時にライン上にあっても、”ファール”と呼ばれて競技中断のルールです。

「ええええ、そうなのね」。アイム君に教えてもらって、なるほどなるほど。さらにびっくりしたのが(ボクに知識がなかっただけですが)、サッカーボールにセンサーチップが組み込まれていて、オフサイドというルールも判断できるようです。選手が足などで触ったときの振動が起きた時刻と、他の選手のその時の試合上での位置から、オフサイドかどうかを客観的に判定できる、とのことなのです。

もうしばらくすると審判が要らなくなる世の中がありえる?例えば、野球やテニスなどはカメラとセンサーがあちこちにあり、瞬時に判定して、選手にわかりやすいアナウンスが自動で流れるようになれば、審判が不要になりそう。。。

ゴルフボールにも何らかのチップが埋め込まれれば、どこに飛んで行ったかすぐわかり、OBなのか、セーフなのか判定容易。探す時間も効率化で、打った回数も距離も自動記録。

今の時代を生きる世代には、審判がいる方がスポーツらしい。最後には人が判断するから面白い。間違えることもあるけど、人間味があって、記憶に残るイベントになりえる、みたいな。ボクなんかは、審判が試合のあり方を実はうまくコントロールしているように思うこともあります。審判のプロフェッショナルとはルールに基づく正しい判断はもちろんですが、全体の流れ・不正のレベルを厳しくみるのか、ゆるめにするのか、など、試合の”締り”もコントロールしているように思います。

でも、変化、進化、進歩ですね。10年したら審判いなくなるかもですね。。。クルマを前にして馬の方がよい。CDを前にしてレコードの方がよい。携帯を前にして固定電話の方がよい。と同じですかね。自分の時代を高く評価し、新しいものに抵抗するものですね。人類が誕生してから今まで、そして永遠に、「最近の若者はよくわからん」と年配者は言い、若者は新しい日常を普通に思い受け入れます。

将来の若者はこう言うかもですね。「え、スポーツに審判ってのがいたの?知らなかったぁ。無駄じゃない?邪魔じゃない?間違えないの?恣意的にならないの?」みたいな。「それじゃルールの意味がなくない?厳格、客観的じゃないと。。。」。

審判どころか、もしかしたら、実際に選手という生身の人間もいなくて、アバターがゲーム上でみたいな世界にもなる???

感染症騒ぎでリモートが盛ん。ふと怖く思うときがあります。オフィスという場所は無く、社員にも会わず。誰かが中途で採用されても、一生会わない。顔だけはわかるが、体は見たこと無い。背が高いのか、太っているのか。「社員」ってなんだ?資料をつくっているのが本当にその人なのか、そもそもWEB会議の向こうにいる人は誰なんだ。

会話も資料も全てがメール、チャット、データでやりとり。コピー機も紙も文房具もハンコも何も無い。昔ながらの、タバコ部屋も給湯室も屋上もトイレも雑談するスペースも無い。気づいたら社員もアバター化。この”人”ではなくて、この”役割”・”機能”を「採用」する世の中に。経理の山田太郎さんではなくて、「経理処理機能さん」とかデザイナーの大谷翔平さんではなくて「アプリデザインさん」とか。

それが当たり前になるのでしょうか。なんか怖い。。。でも、止められない。

話は戻り、ルールや規則の白黒は機械的に、間違う可能性があるひとはなるべく介在せずに、サッカーのようにセンサーやシステムに判定させたほうが良いのかしら。一方で、イレギュラーなケースを裁判官が許すハートウォーミングなケースも見聞きします。病院にかんづめにしないと行けないルールの患者さんについて、亡くなる前の希望を叶えるべく外出を許すとか、これらはこれで感動しますね。感情・人格・知性・人間性に左右される意思決定。。。

いずれ、ひとがいなくなるのが、来るべき未来なのでしょうが、抵抗があるので、なるべくひとが介在して判断・判定してもらう世の中を望んでしまいます。間違うことが多々あるかもしれないけど。。。ボクの、社会的に何が良いのか、ではなくて、個人的な想像力の無さ、臨機応変性の無さ、変化許容力の無さ、にもとづく、年寄りのあがきなのでしょうけど。

ま、ルール・規則は機械的で、その罰則の程度を決めることにひとの感情的な面が介在するのでもいいのかもですね。。。ひとが、あたふたしながらも、間違えながらも、一生懸命に判断・判定する。ってのがなんだか好きです。


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