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無意識に独裁的・全体主義的になる組織のリーダー。気を付けないと(素敵なリーダーになりたい編_v4-52)

どうして、会社のリーダーなるひとは、経営しているひとは、その一部は、厳しく叱責したり怒鳴ることばかりで、それを制御できず、ひとをひとと思わず、非情であろうとするのか。それをよく考えている。

やさしくあるとなぜダメなのか。やさしくといっても何でも許すとか、八方美人とかそんなことではなくて、失敗を許容し、原因究明、解決にフォーカスし、再チャレンジを鼓舞させる、という意味。強く部下を育て、成長させるが、怒鳴ったり、叱責したり、イライラを見せつけたり、はい首、なんてことでは無い。

で、今日、思ったことはこんなこと:

人間って色んな思想、イデオロギー、価値観を、自分に心地良く、都合良く無意識に取り込んで、自分の言動を正当化している、それが理由なのだろうな、って。ひとつのふと思いついた捉え方。

1.例えば、「ノルマ」って言葉、会社で使われるけど、これロシア語。そんなこと知らなかったり、気にしなかったり。会社のTOPになって、全体主義的、君主的を大いに発揮している。でも、自分は民主主義の、個人主義の日本にいるし、経営者としてやるべきことをやっているから、自分がスターリンみたいな全体主義の独裁者になっている、なんて思っていない。

つまり、民主主義・個人主義的社会にいるんだから、自分も当然に民主主義で個人主義なひと、って勘違い。

2.あるいは、正直、独裁的な面があるよな、と思っていても、それが心地良いし、機能していると思い込んでいるから、それは正しいことであり、よもや自分がヒトラー的だとか、スターリン的だとか、そんなことは微塵も思いもしない。日本の戦時中も同じだが、それは批判されるべきイデオロギーであり、自分がなびくわけがない。

つまり、歴史的に批判されるイデオロギーを実施していたら、自分が心地良いなんて思うわけがない、との勘違い。

3.あるいは、詳しくヒトラーがどうだったとか、独裁とはどんなことか、を考えた事も無いし、歴史を考察したこともないから、どういう自分の言動が、そう評価されるかなんて比較もしない。そもそも独裁者には多くの部下が存在してきたが、そこに視点がいかず、自分が独裁で非情で冷酷ならば、部下なんて存在しないだろうと、勘違い。だから、自分はそうではない、このままで良い、と確信。疑問に思わない。

つまり、付いてくる部下がいるなら、会社での自分の王制・独裁制が、文字通り王制・独裁制なんて全く思わない。

4.それに、多少は、やさしくありたいと思っているかもしれないけど、やさしくあると部下がたるむから、やさしくしない。経営者は非情であれ、なんて一般論もある。出来の悪い人間をうまく会社を辞めさせたり、リストラしたり、飛ばしたり、怒鳴ったり、怒ったりで、これで自分もいっぱしの一人前の経営者になったな、なんて思う。

つまり、非情・冷酷であるのがリーダーたるものだ、と思っている。

5.それに、経営者や上司なるひとたちは、部下を怒り続けるから、その結果、改善を達成させた経験は積めるけど、やさしさを同じように続けて、やさしさで改善を得た経験がないから、やさしさの価値が感じられない。

つまり、やさしさの方が効率的に組織の改善・成長を達成できることに気がついていない、やさしさの価値に思いも至らない。

6.それに、実際は自分はやさしいと思っている。だって、家ではやさしい、子供達にはやさしい、自分の子供の友達にもやさしくする。町で困っているひとにも時にやさしくする。震災などで苦境に立たされた人にはボランティアなどを通じて、やさしさを提供する。寄付する。人間はやさしさを、見ず知らずの同類に、示し、提供するように進化してきた。他の哺乳類には見られない。そう思っているかどうかは別にして、自分はやさしいと思っている。

つまり、自分の言動は棚に上げ、自分はやさしくて、よもや非情な独裁者なんて思っていない。

7.そして、自分はやさしく、部下もついてきている、だから、社会に役立つ価値を提供しようとする会社のビジョンが、成り立つ、と思っている。自分はやさしく、社会に役立ちたいというやさしいビジョンは一気通貫している。一貫的だ。だから、みなで、ビジョン実現をめざそう!(で、自分に金を落としてくれ!)

つまり、社会に役立とう(=やさしくあろう)のビジョンと自分の言動の不整合に気づかない

上述を整理するとこんな:

①:自分は民主主義の日本にいるから民主主義的。疑問の余地は無い。
②:だから、独裁とか、全体主義とか、世の中で批判されるイデオロギー的言動を自分がしている訳がない、それが心地良いなんて思う訳がない。自分がまさかヒトラーやスターリン的なんて、そんなこと微塵も思わない。
③:百歩ゆずって、仮に自分がそんな独裁的だったら、そもそも部下がついて来ない。だが、部下が今ココにいる。ならば、自分が”独裁的”であれているのは”独裁的”ではないからだ。
④:そもそも経営は非情であるべき。リーダーは非情であるべき。そうある自分は正しい。
⑤:だから、非情に徹し、怒り・叱る・怒鳴って、組織で結果を出している。ただ、同様にやさしさを継続したことがないから、組織でのやさしさの価値を知り得ないし、そんなこと考えも至らない。
⑥:一方で、家に帰るとやさしい自分がいる。プライベートで社会にはやさしくする時もある。つまり、自分はやさしい。
⑦:なので、やさしい自分と、会社が目指す社会に役立つ価値を提供しようというやさしさビジョンは、整合している。

ということで、自分に問題が何も無い。なので、今までのままで、非情であり続け、イライラ、怒鳴り・叱責し、などを繰り返す。

ま、別に何も悪いわけでは無い。その方の選択なだけ。

でも、どうなのでしょう。そんな勘違いで、優秀なひとは今後も来てくれるのだろうか? 今後のデジタル社会・AI社会の中で、若者の方が知識・技術的に確実に長けている。そんな若者が、こんなリーダーのもとに集まる理由はなんだろうか。そもそも今でも転職者も多くないだろうか。部下の色んな意味での犠牲の上での売上・利益・自分の稼ぎになっていないだろうか。やさしくあると相対的に効率的に稼げるのではないだろうか。

「素敵なリーダー」: 民主主義・個人主義の国で生きているが、TOPリーダーは会社組織で独裁的・全体主義的に簡単に陥る。それが人間にとって心地良いのだもの。公私混同し、部下を小間使い。こうならないように意図して自身を制御しないと。それに、部下がいることと、自分が独裁的でないことはこれまた別問題。部下が、自発的・積極的・前向きに付いて来ているかは別問題。やさしくありたい人間の特性を組織内で解放させるためにも、自分がやさしくなり、非情を忘れて、会社でやさしくありたい。そうしないと、ビジョンという社会に価値を提供しよう!というある意味「やさしい」目標とリーダーの言動が一致しないと、社員は違和感いっぱいです。気を付けたいところです。

こんな素敵なリーダーになりたいですね。

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