ノート提出……これで「評価」するの
・ノート提出の意味とは
きれいなノートを作って、それがある観点から評価される。従来そんな感じだった。それは生徒たちにとってどういう意味になるのだろうか。そして、どういう結果になるのだろうか。
生徒が自分自身で自分の役に立つノートが作れるようになること、それは大切なことなのかもしれない……しかし、自分個人の体験からすると、高校までの授業ノートの作成の仕方はそれ以降の人生において何の役に立っただろうか。んんん…まず、そこに大きな疑問がある。黒板を写したり、他人のノートをコピーしたりしても、何の力もつかなかったと感じているのだ。となると、どうすれば意義あるものになるのだろうか。そこを自分自身がはっきりと意識してから、生徒への指導へ生かしていくことが肝要なこととなる。
・ノートをつくる意味
ぼく自身が「ノート」に書くことが「大切」と感じるようになったのは、「自分の考えをまとめる」ときである。他人に考えを伝えるときや何か発表するとき、そしてもちろん何かを文章として表現することを求められたときである。そのときこそは、ノートに大きめの文字で箇条書きにしたり、図形や矢印を用いたりKP法を利用したりして自分の考えをまとめる。これと同様に、学んだことをまとめる、自分の理解を深めるために自分でまとめる、自分が使いやすいようにノートを創る、そういう力をつけていくことは重要かもしれない。
そう、自分の頭の中、自分の考え…を見える形にして、まとめていくときに用いる「道具」として使っているようである。
・ノート提出否定派
しかし、自分のためにノートをとるのは「ふつう」のこと、そこをさらにプラス評価することはどういうことになるのだろうか。特に、高校生とっては、どういうことを意味すると考えられるだろうか。「自分個人のために行動することを促す」ことであり、それはある意味自分個人の利益追求の心を教育によって育てることになる…それって、本来の教育の姿を考えると「教育的」と言えるのだろうか。
・「個人の利益追求を促す」
とかく、日本の教科教育は結果的に「個人の利益追求」を促すようになっているようになってしまっている。それは、個人的な「受験競争」で勝った者(合格者)がある意味の「目的達成者」となっているように見えるからだ。そこで、ぼくは、教科指導において、「他の人(クラスメイト)の学びの支援に貢献しているか」を一つの評価軸としておいている。
・ぼくの「ノート評価」軸は…
具体的な方法として、当に、このノート提出を利用している。それは、友だち同士がつくったノートを見せ合うことによって、ノート作成の仕方を工夫しあい、さらにわかりやすいものを作れるようになることを目指しているのである。ぼくは、ICTとしては、主にロイロ・ノートを使っているので、この提出箱に期限を区切ってノートを画像として提出してもらい、それを共有する形で生徒にノート情報を流し共有している。そして、ノートをどのように創ったらいいか悩んでいた人も友達のノートを複数見ながら自分にあったものを選んでマネできる。これが定期試験対策に役に立っているようだ。
・「協働性」を促す
そのように利用するものなので、期限までに出された“友達の学びを援助することになったようなノート”を出した人に、「ノート提出」の加点評価を…ということにしている。このことは、他人を「助ける」「支援する」「(に)協力する」という人生において重要なことを「教科指導の中」でも常に続けていくことが必要である、と感じているからである。
個人の利益、自分のことだけを追いかけるような姿勢ばかりを身につけてしまうと、社会に出てから、仕事をするうえでも、辛いことになるだろうと考えるからである。
「協働性」が強調されながら、3観点の中にはその言葉がないのが非常に残念な気がしているが、家庭生活においても社会生活においても非常に重要なことと考えるので、学校教育の中で最も大きな比重を占める「教科の授業」の中で意識していくことが重要だと考えるところである。
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