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無色透名祭Ⅱに参加して。

ボカロPの朴之感想文(ぼくのかんそうぶん)です。
11月2日〜5日にかけて「無色透名祭Ⅱ」という大きなイベントがありました。

簡単に言うと、発表日まで投稿者の名前を伏せ、動画も白背景に黒文字だけという縛りの中で楽曲だけを発表することで、先入観や知名度を極力取り払って楽曲に出会うことができるイベントです。

今回は2回目の開催でなんと応募曲は4800曲超え…!凄まじい数ですが最近のボカロシーンは大きい投稿祭では数千投稿数が平常化してきているので、出張に行きまくってる人が「東京と大阪は近所」と言い出すような感覚で「3000〜4000ぐらいはいくだろな~」とごく自然に思っている自分がいました。恐ろしい。

そんな中、朴之感想文は「ホワイトシーフの憂鬱」という曲で参加しました。

参加にあたり、また参加してみて色んなことを感じましたが、まず最初に参加してよかったこと、主催や運営のみなさん、聴いてくれたみなさんへ感謝を伝えたいです。

ありがとうございました!

ここから本題に入っていきますが、分析やデータはあまりなく、ひとりのボカロPがイベントを経て感じたことをつらつらと書いています。これも一つの「有色」として楽しんでいただければうれしいです。


■参加を諦めようと思っていた。

無色透名祭Ⅱには開催が発表されたときから参加する気満々でした。そのために曲も書いていたのですが、毎年9月10月はなぜか大きな人間関係のもつれや大きくメンタルの調子を崩す予定があり(笑)、今年ももれなく、しかもとんでもなく深いところまで行ってしまいました。

8月にもボカコレという大きなイベントがありました。ふりかえるとその辺りからいい結果を出すことへの焦りが大きくなっていて、周りの伸びていく人と比べたり、過去の一番反応がよかった動画と比べては落ち込んだりするようになっていました。

自分の人生を自分で選択していない。無意識に頭の中にいる誰かからの評価に行動を決めさせられている感覚。それが続くと充実感や生きている感覚を失って結果的に大きくメンタルを崩す。過剰適応。頭では解っていてもついつい忘れてしまいます。

日常生活でもそうなりがちなのに、順位のつく大きなイベント、他にも様々な場所で評価を気にしすぎたことが9月10月の不調に繋がっていたみたいです。

それに加えて制作スランプが重なって二ヶ月近く音作りや編曲がワンコーラスも完成させられない状態に。メンタルも音楽制作もうまく行かないストレスの中なんとか参加しようと粘っていたけれどついに音を上げることになりました。もう無理だ、参加は諦めよう。と。

■世界電力3号機になりたい。

第一回無色透名祭に「ポストずんだロックなのだ」という曲があります。

名曲。

この曲が伸びたことで一躍時の人となったのがボカロPの世界電力2号機さんです。名曲製造機なのでこの曲以外にも素敵な曲がたくさんありますが、この曲がブレイクスルーになったのは間違いないと思います。

活動するからにはもちろん伸びたい。無色透名祭に参加しようと思っていた最初の理由は「世界電力3号機」になりたかったからでした。開催1ヶ月前は特に評価に囚われていたのでその想いが肥大化していました。

大きかれ小さかれ同じようにポスト世界電力になりたい人は今回多かったのではないかと勝手に思っています。

■合言葉はイージーポスト

僕は曲をストックしておく事ができない性格です。もう少し細かく言うと、今気持ちが乗っていないものはどんなにいいものでも興味がなくなってしまうので、ストックした時点で日の目を浴びる可能性はほぼ0に近いのです。

しかも自分にとっての「完成」の基準がフルコーラスフルアレンジ、音質も今やれる限界までやりきったもの。それ以外は未完成。納得できなきゃ進めないくせに納得の基準が実力に比べて高すぎる。

完璧主義の悪いところを煮詰めて発酵させたような思考のせいで曲を出すには作り切るしか選択肢がないくせに、スランプ中は「演奏が完璧になったらライブする」と言って永遠に練習している高校生のようにずーっとイントロの音をいじり続けていました。

あるディスコードのグループに世界電力さんも参加していて、僕がそこでウンウンうなっていたら「無色にイージーポスト(気楽な投稿)をしましょう!」と声をかけてくれました。

それでもしばらくはうじうじしていたのですが、提出期限ギリギリになって「出しておけば何かあったかな。みんな楽しそうでいいな」と思いたくない気持ちがあることに気が付きました。まだイントロもできていない状況だったけど、時間差で「イージーポスト」という言葉が胸にスッと入ってきてショートバージョンでもいいから出そうと思うことができました。学生のときに分からなかった先生の話が大人になってから分かった。みたいなことはよくありますよね。

実は今回の曲は作詞作曲はフルでできていたけど、音が作れなくてワンコーラスになりました。むしろ曲自体は4曲ほど書いていたけど音作りスランプで全部没になりました。先程も書いたようにストックができないのでこの先フルを公開する予定も今のところはありません。でもここで出してなかったらこの曲は世に出なかった。

ここでイージーポストしたことで、イベントにも制作にも気楽に楽しんでみるマインドを取り戻して臨むことができました。「無色透名祭には評価されるため気合いの入ったものを出さなければ」「世界電力3号機になりたい、ならなきゃ」というプレッシャーから開放してくれたのも世界電力さんというなんとも不思議な体験でした。

■曲へのリアクション①反応率

今回は4800曲近くも投稿されたにも関わらず、最終的に一番少ない再生数でも458再生だったようです。すごい。

小金井ささらさんが時間ごとにデータ分析をしてくださっていて、今自分がどのあたりにいるのかを見るのも楽しかったです。ツリーに時間ごとのデータがあるので気になる方はぜひそちらに。

イベント趣旨としてはこういう比較(色)も取っ払って楽しむ方がピュアなのかもしれませんが、気にしてしまうのはもう参加者のサガですね。これもイージーポストマインドのお陰で重圧にならずおもしろがって見ることができました。

どれだけ再生されるかは運の要素が大きく、周りで全然再生されないと言っている方も多い中、僕はありがたいことに常に上位10%前後、最終的には1000再生もしてもらうことができました。

そしてより重要なのがいいね、マイリス、コメントなどのリアクション率です。こちらに関してはイベント終了時点ですべて平均値よりもちょっと下、コメント数に関しては絶望的な数値でしたw

再生してもらえるほどリアクション率が落ちる切ない時間帯もありましたが、なかなか再生が増えない人も多い中、これは「恋人がいるから喧嘩で悩める」みたいな贅沢な状況なんだろうなと思ったりもしました。

■曲へのリアクション②よかったこと

再生数とリアクション率を受けてよかったことは、なんとか提出したワンコーラスの曲、しかも無色を諦めて通常投稿しようと作っていたので時代感もちょっと古いものに予想の5倍ぐらいの反応をいただけたことです。

正直こんなにいいねやマイリスをいただけると思っていませんでした。X(ツイッター)で曲名をつぶやいてくれているのを見つけたときも本当に嬉しかった。平均値よりは少し下でしたが、当社比としては500%です。

疲れていると落ち込みやすくなるので時間帯によってはちょっと気にしてしまったりもしましたが、参加していないはずだった(0だった)のにこんなに聴いてもらえてるのだから、そもそもが全部プラス勘定じゃないかと思うことで乗り切ることができました。

あとは僕の曲を探そうとしてくれた人がいたことがすごく嬉しかったです。ひとり見つけてくれた方がいてニヤニヤしてしまいました。自分では無意識だけど調声(ボカロの歌い方の調整)に特徴があるらしく、そこから探そうとしてくれたり、実際それで見つかったりしておもしろかった。

逆にこれじゃないかと予想を送ってくれたけど外れていた曲が、自分ではこういうことはしないから結構違うなあと思って、人から見たらこの枠の中にいるんだと知れたりすることも楽しかったです。

■曲へのリアクション③悔しかったこと

イージーポスト参加にも関わらずあんなにたくさんのリアクションをいただけた。だけど同時に詰めきれてない部分がシビアにリアクションに出ていたなあと感じました。万全のものを出せていたらもっともっと多くの人に深く届いたのではないか。伸びれば伸びるほどそんな悔しさも同時にわきあがってきました。

でもさっきも書いたように、もともと出せないはずだったのに出せた。万全の状態なら10km余裕で走れるけど、調子が悪くて今日は1.5kmが限界だった。その時10km走れなかったことはダメなことなのか。ダメじゃないですよね。走らなかったら0だったところを1.5km走った。それは紛れもなくプラス。

ついやってしまいがちだけど、調子いいときの自分を基準にしない。今日の自分でできることをやれたのかが大事。

そう、投稿したワンコーラスがあのときの僕の全力で、決して手を抜いたわけじゃないこと。そしてそれを好きと言ってくれる人がいること。誰かと比べるんじゃなく、過去や未来の自分と比べるのではなく、その日の自分がやれるだけやったのだから自分自身もそれを好きになってくれる声も誇りに思おう。同時にまだまだやれるはずという向上心と悔しさも持っていよう。

そういう視点を再度持ち直すきっかけにもなりました。


■誰に責任を求めるのか

様々な要素を取っ払って純粋に楽曲を聴いてもらう環境を作るために工夫がたくさんされていたイベントですが、やはり完璧はありえないものです。限りなく近づける努力をすることしかできません。

本来の趣旨は公平に再生されることが目的ではなく、ピュアに曲に触れてもらうことですが、再生されないと触れてもらえないという側面もやはりあります。

僕は運良く再生される環境に恵まれましたが、そうじゃない方もたくさんいます。そこに怒っている人もいたし、4800もの曲を一気に投稿することで最初10曲だけが投稿されてしまい開始が遅れるトラブルもあったり、広告が打てることにも賛否があったりしました。(これは主催のちいたなさんがニコニコも企業なので利益がないと協力が難しく、制限はかけつつ広告はONにすることで双方の利を守ろうとしたという個人的にとても納得のいく回答をされていました。)

でもここで主催側に「僕、私のためにもっと改善しろ!」と他人に責任を求めるのか、「もっと反応がもらえるものを作れたんじゃないか?できることがあったんじゃないか?」と自分に責任を求めるか、どちらを選んでいくかが大切だと思うのです。

一回や二回ならそこまで影響はなくても、十回、百回と選択を繰り返していくとそれが未来になり人生になっていきます。自分の人生の責任を人に預けると満足感や納得感はどんどん消えていきます。

もちろん相手にも落ち度があったり理不尽にみまわれることはあります。それはそれとして否定せず横において、とりあえず自分がなにかできたのではないかという視点を真ん中においてみる。それができたら苦労せんわ!と自分でも思います。でも「できないこと」と「やろうとしないこと」は違います。やり続けるとたまに成功して、できないときもあるのが当たり前な中で確率が上がっていく。

意見や怒りが飛び交うのもチラホラ見ながら、僕は自分に何ができたかを考え、相手からはありがとうを探す視点で過ごしていきたいと感じていました。


■純粋なリスナーに戻ってみる

ここからはリスナーとして感じたことを書いてみます。

まず僕はリスナーとしての能力が低い人間だと思います。音楽を聴き始めたきっかけは学生のころカラオケに行って一曲もフルで歌える曲がなかったことです。だから歌うために曲を聴いていました。

全体のなんとなくのサウンド感と歌しか聴いていないので、ドラムがかっこいい、ベースが気持ちいいのような意識どころか、いろんな楽器がそれぞれ鳴っていることすら気付いていませんでした。音の塊+歌。

しかも歌詞も全然理解できないものが多く、周りのみんながいい歌詞だと言っているものに「やべえ、何言ってるか全然分からん…」と頻繁に思っていました。今でも思います。

音楽を作る側になってもそれは変わらず、編曲をするようになってからようやくひとつひとつの音に気づき始めましたが、ボカロPを始めたら周りには音楽を聴くことが好きな人がたくさんいて、いかに自分にリスナーとしての力がないのかを思い知りました。

それが少しコンプレックスでもあったり、活動も長くなってきてクリエイター仲間も増え「一生懸命聴く」ことを意識するようになっていました。それはそれでもちろんプラスの影響もあるのですが、元々がサビが好きじゃなかったら切る。プレイリストにも入れない。退屈だったらサビまでも聴かない。そんなタイプだったので最近は聴くことに疲労感を感じていました。

今回は無色というコンセプトの元だったので、あえて純粋なリスナーに戻ってみようと決めて曲を聴いて回りました。時間も限られていたので合計で200~300曲ほどでした(自分的にはめちゃめちゃ聴いてる方)が、8割はサビで、その内半分ぐらいはサビ前で切っていたように思います。

あと自分から曲を探しに行くのも結構疲れるので、公式サイトにあったランダム選曲ボタンがすごくよかったです。受け身なリスナーにとってはストレス軽減になるので参加しやすかったです。


■嫌いなことで自分を語ってもいい

好きな理由は複雑で曖昧だけど嫌いな理由は明確です。あの人が好きな理由は色々あって一言では言えないけど、嫌いな理由は「酔っ払ったらめっちゃ下ネタ言ってくる」のようにかなりピンポイントで言うことができます。

「好きなことで自分を語れ」という言葉がありますが、嫌いなことを見つけるほうがその人が見えてくるので、僕は嫌いなことで自分を語ってもいいと思います。

ただ気をつけないといけないのは、基本的にはわざわざ嫌いを発信する必要はないこと。発信するなら攻撃や否定のためではなく、表現として「好きも嫌いも同じ温度感で対等に置いておく」みたいなイメージで出すこと。

これは僕が純粋にリスナーとして聴いて感じた好き嫌いを簡単につぶやいたものです。改めて見返してみると、裏があるから表もあるように、嫌いもあるから好きも立体的に見えるなあと。

別に外に発する必要はなくても、自分の心の中だけは好きだけを無理に見ようとせず嫌いにも目を向けていくのがおもしろいのではないでしょうか。


■無色透明なものに触れることで自分についた色が見える

僕の作っている音楽、好きな音楽は今はやっているものとはちょっと外れているように思います。だから「もっと聴いてもらうためには流行りを取り入れないと」といつの間にか考えています。

今回はそれが「できなかった」ことで自分の中での普通な曲を出すことになって、思った以上にリアクションをもらえて、流行りを取り入れることがプレッシャーになっている事に気が付きました。完璧主義が悪化していたことも自覚できました。

リスナーとしてもいつの間にか「音楽を聴くことを好きにならなきゃ」と高尚なリスナーになる義務感を感じていたり、「聴きたいけど余裕がない…でもあの人の曲聴かなきゃ」と人との関係が混じった音楽の聴き方をしようとしている自分を見つけました。

絵の具まみれの手でガラスケースに触れるように、限りなく無色透明に近い状態で音楽に触れることで、自分についていた色がそこに残る。そんなイベントだったように思います。

その色が好きだから残す、嫌いだから洗う、それは自分次第。でもまずは気が付かないとどちらを選ぶこともできず触れるものにベタベタと手形を付けていくことになる。

ぐちゃぐちゃになった色も人間って感じがして嫌いじゃないけど、どうせなら好きな色の手形を残していきたい。好きな色で残された手形を見たい。

次があるならフルコーラスで好き嫌いを詰め込んだ曲で参加したい。

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