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【小説】輪郭

2023年1月17日~


これは小説です。小説として読んでください。描きたいものを、ここに書きました。
(分量としては約10,000字です)

***


それは一体何なんだろうね。

そういうことを、ぽつりと口にしてもいいような空気が、あの子との間にはあった。


あなたならどうする?

そう問いかけて、白い窓辺のあの子の方を見る。穏やかな日の差し込む南向きの窓の、すぐそばに備え付けた一人掛けの丸椅子に、マグカップを抱えたあの子がそっと腰を下ろす。あの子は言葉を選ぶように、窓の向こうで青い葉をつける木々に目を向ける。


そうだなあ。林檎をすりおろして、ドライカレーに入れてみたいかな。

何それ。答えになっている?


なっているよ。同じことでしょう。

そう言ってあの子は笑う。


じゃあ、そのドライカレーを作ってくれない?

うん。とびきり美味しいのを作るよ。……何か他に入れてほしいものはある?


そう尋ねるあの子に、私はゆっくりと首を横に振る。

ううん。あなたの好きなように。あなたの描いたものを。


そうだ、と慌てて私は付け加える。

あなたが食べられるもので作ってほしい。あなたと同じものを、同じ鍋から、よそって食べられるように。


そう言うと、窓際のあの子がにっこりと笑う。開けた窓から風が舞い込み、そのスカートがふんわりと広がる。


ありがとう。そんなふうに言ってくれるのはあなただけだよ。


その言葉の温かさをよく思い出す。


**


私が誰かの愛に囚われたくはないように、あの子も誰かの愛に囚われることは望んでいなかっただろう。私はあの子の隣で、"何か"を保ったままで居つづける自信がなくなってしまったのかもしれない。いつの間にかあの子を縫い付ける運命の糸に、成り下がってしまったのかもしれない。

だから私は岸辺を歩く。陽の沈みかけた河川敷の真っすぐな道を歩くのが日課になった。

向こう岸をあの子が通り過ぎても、気がつきもしないだろう。後ろから追い越していく自転車があの子でも、その背を追ったりはしないだろう。

今日は彼と食事の約束をしている。

人の心には、ひとつの席しか用意されていなんだろうか。ふたつの席が用意されている人はいる?もしかしたら、ひとつめに鍵をかけて、もうひとつ別に用意したソファに座る人を、心から慈しんでいる人もいるかもしれない。


彼は、私よりたくさんの、座り心地の良いソファの並ぶ談話室みたいな世界を抱いているような気がする。向かいに座る彼と、その隣で談笑をする新しい彼女を見ながら、そんなことを思う。

人は他人に口出しをしたがるものだけれど、私は彼に何か言うつもりはなかった。その談話室には、いつも愛が溢れているような、そんな気がしたから。その中は対等に温かいから、だから私は安心して、部屋の隅の小さな一人掛けのソファで、クッションを抱えてあいに耳を傾けていられる。


昔から嘘が苦手だった。社交辞令も、お世辞も、世を渡るためのいくつもの武器が、私には恐ろしくて仕方がなかった。その笑顔の裏で、どんな不満を垂らして、どんな愚痴をぶちまけて、その笑顔の裏で、私を嗤っているんだろう。だからいつも上辺だけの言葉たちを恐れていた。とっくの昔に、信頼という言葉を見失ってしまったみたいだった。暖かい空気をいくら送っても、どこからか吹き込む隙間風にかき消されてしまう。そんなことを思い浮かべているのは私だけなんだろうか。
でもきっと、彼の談話室に隙間風は吹かない。彼の信条は、きっと言葉で取り繕うことを許さないだろう。だから私はこの談話室の暖炉の暖かさに甘えて、その横顔を眺めているのかもしれない。


**

あの頃、私は恋に堕ちることが出来ていたんだろうか。いや、できていたか、という問いは間違っているのかもしれない。

才能に触れるたび、私にはない才能や性格や価値観に憧れ感動し尊敬するたびに、私はいつだって“恋”に堕ちたような気持ちになった。学生の頃のあの人も、あの子も、あの人も。その度に、これを恋と言ってしまおうかと考える。恋なんて、そんなに理性でどうこうできるものじゃないよと、そんな風に言う友達に、私はいつも曖昧に頷いた。皆も正しいし、でも私の感じているものも、同じように本物のように思えて仕方がなかった。

恋に堕ちる瞬間があるとして。あの人は私に気があるんじゃないかとか、あの人も満更じゃないんじゃないかとか、そうやってそわそわして気になって仕方がないあの瞬間。あの場所を、もう恋に堕ちているんだと皆は言い表しているんだろう。だけどそのそわそわする片思いの、一番楽しくて苦しいとき、あの急降下の滑り台の途中で、素直に恋に滑り落ちていけないのが私だった。あの滑り台の途中で引っ掛かって、手すりに必死に掴まって、滑る斜面を駆け登ろうとして。それでもまた滑り落ちてきてしまう恐怖と苦しさをよく知っていた。あの滑り台を何の苦もなく、堕ちた先に何の不安もないみたいに平気で滑り降りていく周りの子たちが、私は心底信じられなかった。

あの滑り台の途中で、この堕ちた先を思った途端、滑り台自体がすうっと消えてしまったことだってある。

からかっているだけだよ。

あなたはその先に何を求めているの。

そういう悪魔のささやきが聞こえて、立ち止まって、振り返ってしまったんだ。

まだ何も言われていないのに?
まだ何も始まっていないのに?

でも私のその温度の変化はきっと伝わって――それがただの思い違いだったとしても――相手もまたそのうち冷めてしまっただろう。



恋の手前で、この先に両手を広げて待つ形のない恐怖に打ち震える。

周りが次々と私を追い越してく。
また暗闇の中から、「ここまで堕ちておいでよ」という甘言が聞こえる。

 

**


解凍してしまわない方がいいものはある。堕ちてしまわないのが、唯一の正解であることがあるように。

これがただのバグでも良かった。こんな都合の良いバグなんてないとさえ思った。

こちら側にはもうこれ以上倒れられないシーソー。私の足元には、つっかいとなるようにタイヤが(ふたつほど)置かれているから、平行よりこちら側に傾くことはないと安心できる。ぼむ。ぼむ。そうやって私を守ってくれる。

あの子が何度も電車を、新幹線を、待ったであろうホームを車内から眺めた。ただ記憶だけを心の中でその地に供えて目を閉じる。あの子の長い髪を、あの子の後姿を探してはいけない。誰かの暮らすその街に背を向けて、発車音がこだまする。 

***


待ち合わせ場所で携帯をいじっていると彼の声がした。

「ごめん、一本乗り過ごしちゃって」

別にいいよ。そう言って、今度行ってみようと言い合っていた店を目指す。

注文を待っている間、この半日彼を独占する私という存在について考える。彼は相変わらずバイト先の子やらサークル仲間やらに飲みに誘われているらしい。私の前では気を許しているのか気を遣っていないのか、よく携帯を見つめている。

私はそれを、ただ眺めている。紅茶が冷める前にシフォンケーキを頼んだ。

「それ、面白いの?」

店員さんの気配に一瞬視線を上げた彼が、彼を見つめる私の視線に気づく。

それって?

目線でそう問い返すと、ずっと俺見てるでしょ、と上向きのまつげが君の眼の上で揺れる。

「どうだろ。面白い、のかな」

私の歯切れの悪い返答に、彼は笑って携帯をテーブルに伏せ、きっとそろそろ温くなっているだろうコーヒーを一口すすった。

いつも掴みどころのないことを言うよな。

私は曖昧に笑って、彼の整った指先を見つめる。あの子なら、恥ずかしそうに眼を伏せて笑っただろうか。それとも、何か悩み事でもあるのかと心配そうに私の顔を覗き込むだろうか。
考えても仕方のないこともある。代わりに、ちょっとした気掛かりを解消することにする。

「そう言えばこの前の彼女、ちゃんとプレゼントあげた?」

「…え、ああうん、ちゃんと渡したよ」

私が口を出してどうするんだと思いながら、彼に振り回される誰かを想っているのも確かだった。彼女が座るはずだったかもしれない、彼の向かい席に陣取って時間を奪っている、せめてもの償いとして。

ねえ、あいってどういうものだと思う?

そんな風に尋ねたら、彼はまた変なこと考えている、と笑うだろうか。笑って、でも心の談話室に、私を入れてくれるだろうか。

「ねえ、好きってどういうものだと思う?」

傷つくものも失うものもなければ、こんなことも簡単に訊いてしまえる。予想に反して、彼は笑いもせず話題を逸らしもしなかった。

「そうだな……。俺は、まあ基本みんな好きだけど」

特に可愛い子は……なんてにやっ笑うのは、場の空気を柔らかくするための彼の常套手段だと知っている。彼が、とっくに湯気の立ち上らなくなったカップをまた持ち上げた。

「一応言っておくけど。俺はちゃんとお前のこと大事だよ」

……知ってる。
好き、を大事、に言い換えるのがずるいなんて言うつもりもない。よくわからないものを知った風に口にしないのは彼の美徳だ。

だから彼の談話室には隙間風が吹かない。

帰り道、少し遠回りして駅まで一緒に歩いた。西日の当たる頬とは対照的に、ビルの影を抜ける風は肌寒い。
彼がさっきの会話の続きを口にする。

好き、って何かなんて、俺にはわかんないけどさ。でも、なんか、何となくだけど。こいつはここに居てほしいなっていう奴には、俺なりに嘘つかないようにしてるつもりではいる。


嘘つかないって?

隣を歩く彼と、袖が触れあう。お互いに、その距離が煩わしくないことを知っている。

こういうことだよ。

そう言って私の冷たい手を握って、自分のポケットに引き入れてくれる。

温かい。

そう言うと、彼は私たちを追い越していくトラックの方に顔をそむけた。

寒いときは寒いって言えばいいよ。


風に乗って彼の声が届いた。

もしその手に指を絡めても、彼は何にも言わないだろう。私がその距離に温かさ以上のものを見出さなければ。
けれどそれは、その距離にそれ以上の何かを推し量らなくてもいい、ということでもある。お互いに、その距離が煩わしくないことを知っている。

ファミレスに行けば、最初は大抵向かいに座ることにしている。でも、料理がきたあとで彼の隣にするりと移動することが多い。ドリンクバーに立った彼を行かせて、まだ少し温かい、彼の座っていた場所を占領する。戻ってくると、少しあきれたように彼は首を振って私の隣に滑り込んでくる。

ドリンクバーいいの。

いい。さっき入れたばっかり。


何事もないかのように、彼が戯れて私をテーブル席の奥に押し込むから、その拍子にお互いの肩が触れ合う。彼の脱いだコートと、私より体温の高いニットに挟まれて、私は少しの間安心して眠る。

**

夜、寝つきが悪いのは小さな頃からだった。そのうち眠れない日には音楽をかけることを覚え、でも結局、睡眠の質は落ちるのか真夜中に目が覚めた。そんなとき、まだ起きているだろう、あの子の部屋でかかる音楽を思った。

もう寝る時間でしょう。

そう言われて、そうだね、と言って少しの間会話を続けた。朝方、早めに目が覚めたと言って、代わりにベッドに滑り込むあの子を毛布の中に誘った。


あの子がちょっと待ってて、と部屋を飛び出し、夜遅くに見せてくれた空を思い出すのは、決まってひとり毛布をかぶる、寒い冬の夜だった。

無理はしなくていいのに。風邪を引いたら笑えないよ。

そう言うと、そっか、と無邪気な声で笑った。
そんなこと、考えてなかったよ。ただ、見せたいなと思って。


心配したんだよ。携帯も置いていくし。

大丈夫だよ。三脚を立ててしばらく眺めていたんだ。寒さには慣れているから。


ちがうよ。
そう言って首を左右に振った。誰かが寒い思いをするのも、寒い中誰かを待つ時間の寂しさも、私は苦手だ。

どういうこと?
あの子がキョトンとした顔で私を見つめる。だから私は言葉を選ぶ。


……隣に誰かがいて、一緒に見上げるなら、それはきっと寒くも寂しくもないよ。だから、ひとりで長く居る必要なんてない。それなのに、カメラだけ持って行ってしまったでしょう。


あの子はゆっくりと私の言葉を食んだ。
そうだね。いつか、あなたと見たいなって思ってるよ。

そう言ってあの子が少し寂しそうに笑う。

永遠もいつかも、全部儚く風に吹かれることに、そのときだけは目を瞑った。


**

彼に好意がないと言えば嘘になると思う一方で、私には好きに“なりきる”ための何か重要な要素が欠落しているみたいにも思えた。だから、たくさんのオプションの付いたひとり席は、私には手が届かないし、望んでもいなかった。でもそれはもしかしたら、負け犬の遠吠えのようなものだったのかもしれない。でももしかしたら、本当にそうでしかありえなかったのかもしれない。

気の置けない相手、に準ずる推薦枠みたいに思っていたし、彼にとってもそうであると信じていた。AO入試にはAO入試の試験があって、共通テストで振り分けられたりしないのと同じように。私にはそれが心地よかった。

期待する余地があれば期待していた?

もし誰かにそう問われたら、わからない、と答えるしかない、と信じている。けれどその一方で、いつも心の隅っこで自分の中途半端さに気がついている。
そんなことはおくびにも出さず、今だけはと談話室のソファで眠る。そしてふと夜中に目が覚めては、私にまだ中途半端さが残っていることに安堵した。

今、もしも私の部屋に規制線が張られていなかったなら、見つけられていなかったかもしれない彼の世界を思う。それでもいい。中途半端さには何も言わず、談話室に入れてくれた。私が、談話室を構成する取るに足らない付属品でも別に良い、とさえ思った。そう思っている限り、何も恐れないでいられる。恐れるもののない全能感は、何も恋だけの特権じゃない。

**

あの子の作るものはどれも淡い色で輝いた。部屋に差し込む光さえあの子の周りで屈折し、淡青に変わった。白い壁に、あの子の青い海のようなリネン生地が反射して青い影を作る。


寒色が好きなんだ。目に優しいから。

あの子が白いマグカップを口元に寄せながらそう呟く。マグカップの湯気は、赤いハーブティーを映して少しだけ朱く見えた。


この部屋に、赤いものなんてこのハーブティーくらいかも。

そう言うあの子に、どうかな、と赤いものを思い浮かべる。


昨日の私はえんじ色の服を着ていたよ。それにほら、この前はトマトパスタを作ってた。

そうやって赤色を挙げる私を、あの子がそっと見つめる。

そうか、そうだね。おやつの林檎も赤かったね。


絵葉書にしてくれた、窓辺に置いたひとつの林檎。フルーツナイフで器用に輪切りにして、ジャムとピーナッツペーストを塗って美味しそうに齧るところを、私はよくソファから眺めた。


あなたはきっと暖色だね。

あの子が、少し得意そうに言う。あの子の世界は、きっと私より繊細な色で溢れている。絶対音感で聞く世界を知らないように、絶対色覚のような世界では、陽の光すら一期一会の代物なのかもしれない。


暖色は、あなたの淡い寒色の世界では眩しすぎはしない?

あの子が、マグカップを窓辺に置いて、私を見つめて微笑む。

自分では選ばないけれど、とても暖かいよ。


あの子が飲みこんだハーブティーは、その氷の四肢を温めただろうか。
溶かして塗りつぶしてしまったものが、どこかにあったんじゃないだろうか。

**

約束のつもりだった。いつか永遠なんてないと証明される時が来ても、約束をなぞる瞬間は残されていると思っていた。でも、堕ちた瞬間から、そんなもの待ってなんかいなかったのかもしれない。

お隣の背の高い彼より、あなたの方が心地よいと思ったんだよ。

本当に?

ひとつだけの席に誰かが座っていても、あなたの方が大切だって言える。あなたもそうでしょう?


私の中で、名も知らないカノジョの顔がフラッシュバックする。


それは、ねえそれは、その席に座る誰かも望んでいるの?


その幸福を、私はきっと奪ってしまったことがあるよ。苦しいのは、幻想が囁いた誰かの涙だったんだよ。ちらりと目の隅に捉えた悲しそうな笑顔だったんだよ。もう私の滑り台は消え失せてしまった後だったのに、私は、隣で、向かいの席で、あのとき、誰かの時間を独占してしまうのが恐ろしかった。どこかで誰かが泣いて、でも私の何か相容れなさのせいで、それを飲み込んだ子が、きっとどこかにいたんだよ。

ひとりに迷惑をかけるのはいい。その人がそれでいいと言うのなら。だけど私の我儘に巻き込まれて泣く人を、もう見たくない。


**

私にない才能に触れるたび、同じ深度で会話できる予感を覚えるたび、期待に胸躍るのを恋と言ってしまうなら、これは恋だと言ってもよかった。それでもそう呼ばないことにしたのは、言葉を当てはめてしまわなくてもいいと思ったから。口約束なんてなくても、彼との境界線は淡く揺れるベールに覆われて、踏み込んでも踏み込まれても痛くなかった。海水に浮かんで生ぬるい血を流しても、彼は私から逃げ出した涙を拭っただろう。


ねえ、これはどういうことだと思う?

そういうことを訊いてもいい雰囲気が、彼との間にはあった。そして彼は、面倒くさがるどころか、そんな思考と言葉遊びによる戯れを楽しんでくれる。これは都合のいい妄想でも期待でもない、確信だ。そう思えた。

私の不安や、とりとめのない思考を、話してもいい相手を、共に考えひとつの方向性を示し合える相手というのを、ずっと期待していた。それは、小さな頃からの、叶いそうもない夢のひとつだった。

あの子は離れてしまった。彼はそこに名はいらないと言った。背中を守ってくれる温かさに、寄りかかって息をつける瞬間があった。

私の名に、意味を与えたのはあの子だったけど、私の名を、世界から匿って隣にいてくれたのは彼だった。


茜色の夕陽が車窓に反射する。もうすぐあなたの言葉が輝く夜になる。眠れない日、本当は何か予感したように目が覚めて、星が届けたばかりの言葉を抱えてまた目を閉じた。繰り返し見たループの夢から抜け出せない夜も、ここではちゃんと終わりを迎える。もう怖がらなくていい。毎回、そこにある体温に安心すればいい。夜はちゃんと明けてくれる。
だからあなたが心配しないように、朝日が昇ってから返信を打つ。


**


こっちまで堕ちておいでという甘言が聴こえる。もしもいつか、私がそれを認めて堕ちてきた途端、彼はつまらなくなって私を見捨てて、何のしがらみも後悔も後腐れもなく、去っていくのかもしれない。もしくは去りもせず、ただ興味を失ってしまったとばかりに、いつも通りの表向きの笑みを私に見せるのかもしれない。

今、私に堕ちるべく用意された道がない。もし私の前にまたその椅子のある部屋が現れるまでは、少なくとも私はこれを保っていられる。

だから触れない。この、安全地帯から出るつもりはない。そんな本来の中途半端さを恥じて惑う私に、いつか彼が失望することを恐れている。鍵の開かない部屋は、もう私の手の届かない闇の向こうでおとなしくしているのだから。安全地帯は、彼の望む通りの安全地帯であり続ける。

本心なのか、もう傷ついていられないと泣いた部屋の中の私が無意識にそうさせるのか。もうわからなくて思考を放棄している。

ガラス窓の水滴に反射して輝いた、町を照らす無数の灯りを見ていた。


**


時々、私の中にある椅子がただ使用中止になっているだけなんじゃないかっていう気になる。今、その椅子には立ち入り禁止の黄色いテープがぐるぐる巻にしてあって、誰も使えない。そこの真上のスポットライトが切れてしまっているんだ。だから、次に誰かがそれを治すまでは――もしくは私がいつかそれを交換するまでは――バランスなんて取る必要なんてない。今、その椅子は使用中止なんだから。

捨てるものもない、だから無防備にも、目を惹かれるものを純粋に追いかけていられる。武装しなくても、予防線を張らなくても、着の身着のままで。でももし、その予防線がまた私の前に現れたとき、一人掛けの椅子が闇から浮かび上がるとき、ソファから溢れた温かさを、求めないでいられる私なんだろうか。


絶望の淵で、私は彼の名前を叫ばない。
悲嘆に暮れて、彼は私の名前を叫ばない。

それでいい。最高じゃないか。
失うものなんて何もない。

失わせてしまうものも、もう何もない。安全地帯の外側の世界なんてない。それ以上望むものなんてない。

そう信じて確信している私が、闇の向こうの私に取って代わられることを恐れている。私はきっと、ダースチョコみたいに均等に計算された規格に収まってしまう。そのとき彼は、暖炉の前で溶けていく私の痴態を許してくれるだろうか。そのとき私は、自分の痴態をどこまで許せるだろうか。


泣いて喚いた。彼の隣で、タオルに顔をうずめた。無言のまま、彼がインスタントのコーンスープを入れてくれる。

それはきっと、温かい飲み物が私に必要だと思ったから。

必要なら私を抱きしめてもくれるだろう。

守り方を間違えないでいてくれる。彼は自分にも、私にも嘘をつかないだろう。だから私は、彼のそばで涙を隠さずにいられる。

**

可愛い子は目に入れても痛くない、みたいな言葉があるけど、何となくそんなイメージを抱いている。体温の延長線上、輪郭がぼやけて世界が重なる。傷に触れられても、きっと怖くないと思った。もし彼の傷を目の当たりにして私の瞳から涙がこぼれても、洗い流す傷口にあなたが顔をしかめないことを信じていた。信じていたいと思った。

世界の輪郭がぼやける。

ときどき、あなたの仮面の内側に触れてみたいという身の丈に合わない好奇心に、傷つきたい、痛い目を見て全てを手放してしまいたい、そんな小さな私の影を見る。


***


卒業式とか、春に決まって繰り返すのが、おすすめの作品を聞いて回ることだった。

おすすめは何?なんでも読むよ。

実際に読んだ作品もあれば、何年もたってから読んだ作品もあるし、まだ読んでいないものもある。でもいつも、そうやって何か一つか二つ、作品を教えてもらう。

好きな作品には、その人らしさが出るし、意外な一面が見えることもあるし、それに、その作品を目にするたびに、耳にするたびに、その人を思い出す。

あなたが教えてくれたことがたくさんある。ひとつひとつの言葉はいつか薄れて消えてしまっても、確かにもらった愛がある。確かに強さを分けてもらった。街中で、書店で、配信サイトで、動画サイトで、私の中にきっと面影がよぎるだろう。そのくらいのことは、確信しておいてほしい。

私は、ほら忘れなかったでしょって、いつか笑って眠りにつこう。

そのとき、あなたにも、私にも、隣に居てくれる人があればいい。

重ならない平行線の先にある幸福を願おう。

どんなにさよならを想定しても、繰り返しても、悲しくて私の一部が流れ出す。いつか拾い集めて、頬が乾いたら、それは新しい結晶になるだろう。


もしもいつか、私の立ち入り禁止線がほどけて、シーソーが自由に傾くようになって、あなたを想ってしまうことがあれば。それもきっと私が取り得る、ひとつのさよならの形だろう。もしも本当に、私が言葉に囚われた世の中に堕ちてしまったら、私はきっとこの名を捨てると思う。

もしかしたら、雨風が私を風化させて、いつのまにか全てを忘れ去ってしまうのかもしれない。

でもその前に言葉や歌を残すのだけは、例え望んでいなくても、そのくらいは許してもらいたい。

馬鹿みたいに素敵な日々だったと泣いて笑うよ。言葉にくるまって眠った。その声で遮った夜があった。塔の上で、並んで見た世界を覚えている。私ではない別の世界が、私へと引いたひとつの接線を覚えている。
不幸を許してもらった。傷ついた羽でも、きっとまた飛び立てるだろう。私にはもったいないくらいだ。だからもらった宝石の輝きを世界に返そう。


だから、無人島で迎える最期は、願わくはあなたで最後がいい。

だけど、あなたがその言葉を信用できないのを知っているし、私自身でさえその言葉を信じられないのもわかっている。

だからせめて、あなたの期待する言葉を、私が信じられる言葉を、ここに残そう。






いつか忘れてしまってもいいよ。どこかの書店で、街中で、何かの作品が目に入ったとき、少し懐かしく感じてくれたら、それでいいということにしよう。

私のことなんか、できれば早く忘れてしまってね。世界線が触れあわず遠く離れてしまった後は、一年の中で一日だってどうか私を思い出さないでほしい。あなたへ送った温かさだけ、あなたの中で灯りに変わるならそれが一番嬉しい。


このくらいのことを前提にして強がって、覚悟しなければ、階段島の穏やかな停滞にも、談話室の温もりにも、私は安心して眠れない。失うものがない無人島で、もし他に選択肢があるなら、失わずに済むものがあるなら、私ひとりで背負いこんで終わってしまうだろう。

それはあなたも同じなのかもしれない。飢えも不安も猜疑心も置いてきた場所で、空を見上げるだけの約束をした。等しく可能性を捨てて、あなたが私の隣で空を見上げてくれていたなら、どんなに泣いてもあなたに謝ったりなんかしない。泣いて謝るくらいなら、逃げ出した方がましだ。だから、世の中に堕ちてしまったらそのときには、きっとこの名を捨てるだろうと思ったんだ。


全て夢だとしてもいい。だから私は、小春日につぼみを膨らませる桜に焦がれる頃に戻りたくはない。いつか覚めてしまってもいい。それがただの甘い夢から覚めた後の、悪夢への入り口だと言われたって別に良かった。記憶から滑り落ちる露を、瓶に拾い集めてみても一向に美しくはならなかった。そこにはっと目の覚めるミントを浮かべたのも、ほんの一滴のライムを絞ったのも、あなたに違いなかった。

全部夢でもいい。覚めてしまってもいい。覚めるまでは、どうかこの夜空と、明日に確かな光を。





あなたと別れたその後は、談話室で溜め込んだ温かな空気をコートの中にしまい込んで、初夏の温かさまでひとり歩いてたどり着けるでしょう。


あの談話室を懐かしんでも、いつか泣かずに眠れるようになる私を、遠くで願っていて。








期待に沿って、そんな風に強がってあげる。もらったものを糧に輝いてあげる。忘れてなんて言えないあなたの代わりに、忘れてしまってねと背を向けよう。

あれもこれも全部、どうしようもない悲観が生み出したあなたの理想だということにしていれば、そのうち頬も乾くでしょう。









だからそれまでは、太陽系の先に思いを馳せて、誰もいないこの島で、とりとめのない話をしていよう。





(約10,600字)


最後まで読んでくださりありがとうございます。読んでくださったあなたの夜を掬う、言葉や音楽が、この世界のどこかにありますように。明日に明るい色があることを願います。どうか、良い一日を。