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【短編小説】薄紅。

『薄紅。』




触れた手が冷たかったから、彼も雨のなか歩いてきたのだと思った。

チケットを受け取って、美術館のゲートをくぐる。必修科目のレポート課題さえなければ一生来なかったかもしれない、しんとした空間。
さらさらと見て回って、レポートに活かせそうなところだけメモを取った。ペアの彼はどこだろうかと、ショーケースを覗く人の背後を順路の逆向きに辿る。

結局、彼はまだ2番目の部屋にいた。特別展の度に訪れているというだけあって、こういうのが好きなんだろうと思う。声を掛けて急かすのも気が引けてふと周囲を見回すと、部屋の隅に置かれた休憩用のベンチが目に入った。ここはこっそり彼の後ろ姿を眺めて、あとで友達との雑談の話題にでもしよう。

解説をひとつずつ読んでいるようで、彼の進みはとてもゆっくりだった。入館前、「早く終わったら一階の休憩スペースかカフェにいて」と言われた理由が今はよくわかる。

遮光カーテンが閉められ、ショーケースの白いライトと最低限足元を照らす照明が、ぼんやり彼と、他の入館客(平日なのもあって若い人はほとんどいない)を照らしている。まだ春の名残のある梅雨の始まりだというのに、薄暗い室内は冷房がよく効いていた。

先程、チケットを受け取るのに触れたその指の冷たさを思い出す。服装に無頓着そうな黒いオーバーシャツの袖から伸びる、(明らかな文化系なのに)私より日焼けした肌が、ここからでもよくわかった。

するりと触れてみたいと思った。こういうのは、友達との軽い会話に投げてしまうには惜しくて、大抵そっと胸の中に仕舞っている。

結局冷房が寒くなって、温かいお茶を買って休憩スペースに移動した。外の雨はまだ降り続いていて、傘をさして帰るのはやはり少し面倒な気がした。

階段を降りてくる彼を見つけて、立ち上がって軽く手を振る。お待たせと言って会釈する彼には、他に親しい人がいただろうかとふと考えてしまう。

また、その腕に触れたいと思った。だけど、何事もないかのように彼に背を向けて入り口に向かった。後ろをついてくる彼の足音をやけに意識した。
ばん、と鈍い音を立てて傘が開いて、隣にもまた同じような音が響く。ばらばらと鳴る雨音が、私と彼をどうしようもなく隔てている。

この距離が一番安全で。だけど、雨に濡れても私は彼に触れたいと願っている。








(約1,000字)

なんか(恋愛系の)小説書いてー、って言われて書いてみた。
掴みの冒頭を考えて、あとはそれに合うように物語を描く、というのを(短編小説では)いつもやってます。

前は思い描いたシーンから物語書くこと多かったけど、最近は浮かんだフレーズから広げていくのが多い気がする。

最後まで読んでくださりありがとうございます。読んでくださったあなたの夜を掬う、言葉や音楽が、この世界のどこかにありますように。明日に明るい色があることを願います。どうか、良い一日を。