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【小説】見知らぬ地

2022年9月19日~2022年11月2日
(注意:とても長いので時間がある時にお読みください。読了目安時間は約20分です。)

***




 見知らぬ地のような気がした。それが少しだけ寂しかった。


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 街の喧騒の頭上で、ホログラムスクリーンがニュースを伝えている。新たな構想発表の話題で、どこか皆浮足立っているような気がした。

 ヴァーチャルリアリティ、VRと呼ばれる世界が普及し始めたVR元年以降、その世界は日々拡大してきた。ゲームに映画、買い物、旅行、ビジネス、授業……。そんな中、居住エリア解放に向けた開発が行われるという噂が立ち始めたのは半年ほど前だった。ビル街の頭上に浮かぶホログラムスクリーンに、天才少年と呼ばれる冴島夏希(さえじまなつき)が大きく映し出されている。いくつもの飛び級と共に十八歳で海外のドクターコースを修了した天才少年。その冴島が、学生時代から実力を買われていたという大手IT企業のロゴの前で、笑顔でインタビューに応じている。

「試験的にではありますが、初のフルダイブ型のエリアの開放、併せて居住エリアを追加する構想が立ち上がっています。将来的には日本サーバでも段階的にフルダイブエリアを段階的に開放していく予定です。」

「冴島さんは今年博士号を取得されたばかりですよね。冴島さんが開発の責任者であるというのは本当なのでしょうか?」

 キャスターの直球の質問に、スクリーンの冴島夏希は当たり障りのない笑顔で謙遜した。

「とんでもない、僕は開発グループの皆さんのそばで勉強させていただく日々でした。今後はもっと役に立てるように、日々学ばせていただいています。」

 夏希は天才少年のその名に負けず、十代前半から先鋭揃いの開発チームに名を連ね、研修参加という形で、実際にVR研究開発に携わってきたという。今や、その開発チームでも重要なポストにいるという噂だ。そんな彼ともなれば、こうしてスクリーンに映るたび、多くの人が彼の活躍を応援していた。



 改札を抜けた百瀬蓮(ももせれん)は、ホログラム上の天才少年、冴島夏希を見上げて立ち止まった。構内アナウンスにホログラム、高層ビル群。久しぶりの東京だった。

 蓮は普段、Iターンで住み着いた和歌山の山奥で第三セクターの職員をしている。限界集落と言われるような山間部の小さな集落を回り、買い物補助をしたり獣害被害を聞いて対策したり。住み手がいなくなった一軒家を借り受け、野菜や果物を育てて、自給自足に近い生活をしている。とは言えもはや都市圏への一極集中の時代で、ほとんどをアナログに頼るこうした地方の住民は、どこか世界から切り捨てられたように暮らしているのも事実だった。久しぶりに東京の風に吹かれ、少しの虚しさと寂しさと共に、蓮の中でその思いが一段と強くなった。

 型遅れのスマートフォン(今や腕につける端末が主流)で店を検索し、5年前とは雰囲気の違う街で何とか目的の店にたどり着く。

 午後の会合発表の前に、端末を買いに来たのだった。もちろん、ネットで買えば早い話なのだが、人口の大半が関東および関西都市圏に集中しているため、その他の地域は配送料が馬鹿にならないほど高く設定されている。それならば、とここまで買いに来たのだったが、平日の開店直後だからか、広々としたガラス張りの店内に他に人はいなかった。機種や機能などいくら眺めても違いなどわからないので、初心者らしく奥のカウンターで店員を探す。

「……すみません?」

 しんとした店内に自分の声が響く。奥から店員が出てくるかとも待ってみるが気配はなかった。と、蓮の目の前に小さなホログラムウィンドウが開く。

『いらっしゃいませ。本日はどのようなご用件でしょうか?』

 文字表示とともに機械音声(と言っても人間の声とほとんど変わらない)が流れる。戸惑っているうちに文字が消え、メニュー画面が表示された。新規購入、継続、契約内容変更、修理などといった項目が並ぶ一番下に、『音声入力も可能です』の一文を見つけ、恐る恐る口を開いた。

「VR用の端末がほしいのですが…」

 どうにか購入したのは外出用の端末と、そちらと連携して使用するらしいメガネ型端末(イヤホン付きのAR、つまり拡張現実サービス機能付き)、そしてヴァーチャル(VR)会議などにも使える自宅用。こんな風に少しずつ、世の中についていかないと取り残されていってしまう。それでもいい、と個人的には思うけれど、そう言ってもいられないのだった。

 午後から、全国の第三セクターが集まる会合がある。それぞれの取り組みや成果、方針といったことについて共有し、今後の運営に生かそうというのだ。中高年から年配の参加者が多いのもあって、これまで頑なに対面で開催してきたのだが、それも今回で最後となることが決まっている。実際、この時代の中というのもあって、すでに半数の法人はオンラインによるホログラム参加に移行してしまっていた。

 さらに明日はまた別の会議に参加することになっている。それが蓮には少し憂鬱だった。

 あの天才少年が進める、地方のVR移転。世界的な大企業の出資もあることから、国も巻き込んで試験運用が始まろうとしている。そこに熊野古道周辺自治体が連名で名乗りを上げたのだ。他にもいくつかの地域や施設が導入を検討していると聞く。

 街並みや自然遺産をそっくりそのままVR世界で再現することで、価値のあるものを「保存」し、更にはVR上での観光客の誘致を図るというのだ。VR観光の売上は元の自治体や商店に一部割り当てられ、しかも試験運用の対象自治体は本来の初期開発費用が一部免除されるなど、ここで名乗りを上げるメリットは大きい。その他にも実際の住宅も再現できるらしく、希望者はVRの街で同じ家に住み続けられるという噂まであった。ダイブ型と呼ばれるような、五感の再現性の向上はかの冴島夏希の功績だと讃えられている。物体の質感まで再現されてしまったら、現実の世界はもっと寂れてしまうのかもしれないと思うと、蓮は漠然とした焦燥感に襲われるのだった。ひとり、またひとりと村を離れていく寂しさ、悔しさを思い出しては、十も年下の、あの天才少年の爽やかな笑みをどうしても好きになれないのも無理はないのかもしれないと思うのだった。



 夏希はオフィスに設置してあるVR室で"目を覚まし"た。新設のエリアで一足先に散歩(という名の最終確認)をしてきたのだった。

 VR室にはベッドやリクライニングチェア、クッションソファなど様々なダイブスペースが点々と設置されている。夏希のお気に入りはリクライニングチェアだった。ダイブ中に寝転がっているとどうしてもVR内で"立って歩いている"感覚が薄くなる。

 (今後の課題だな……)

 今日はこのまま学会発表にオブザーバーとして参加することになっている。ホログラムウィンドウを起動しながら、夏希は次の課題について考えていた。


 蓮が冴島夏希の姿(現実にはホログラムだが)を見つけたのは、自分の発表が終わって周りを見渡した時だった。今や見慣れた最後列に"座る"ホログラムの中に、つい先ほど街で見かけたあのいけ好かない顔があったのだ。慌てて資料をめくってみれば(買ったばかりのホログラム端末の操作に手間取ったのは言うまでもないが)、やはり冴島の名前が載っている。地方で何とかやりくりして住民の生活を守り、地域再生を目指しているこの集まりに、一体何の用事があるというのか。

 会合の最後、冴島が少しいいですか、と手を挙げた。

「今回オブザーバーとして参加させていただきました、冴島と申します。どの法人の皆様もとても素晴らしい取り組みをされていることを学ばせていただきました。僕は小さな頃、父方の祖母によくしてもらいました。両親が帰ってくるまで勉強を見てもらったり、干し柿作りを手伝ったり。そうした生活の価値は、これからも変わらないと思います。私はVRの研究開発を行なっているのですが、今後は皆様とも協力して課題に取り組んでいければと考えています。本日は貴重なお話を……」

 冴島の爽やかな笑みが、蓮にはどうにも胡散臭く見えて仕方がなかった。周りを見渡しても、そんなわけないだろ、という多くの心の声が聞こえてくるような雰囲気であるのは間違いなかった。冴島の推し進める技術は、恩恵に与る東京という"街"から見た全てであって、そこから切り捨てられ、過疎に苦しみながら何とか住民の生活を守っている蓮たちの努力とは、まるで正反対なのだ。そんな白けた場の空気など意にも介さず理想を語る冴島が、反感を買うのは当然のことのように思えた。


 とは言っても、蓮が所属する第三セクターを含め、熊野古道を中心とした地域群が、冴島の計画する試験運用に名乗りを上げているのもまた事実なのだった。

 明日の試験運用の進行報告に関する会議は、この近くのホテルで行われると連絡を受けている。会場を出た蓮は、下見を兼ねて、とそのホテルに向かった。電車に乗っても良いがどうせ一駅なので歩くことにする。ホログラム上で地図を確認し(先ほどよりスムーズに表示できた)、蓮はやけに広い歩道を歩き出した。

 いつの間にかこんな簡素化された味気ない街になっているのだから、ホテルも簡素かと思いきや決してそうではなかった。赤みがかった暖かな灯りと、やけにふんわりした高級感のある絨毯、これまた体が沈み込むほど柔らかなソファの並ぶ広々としたロビー。見上げれば大きなシャンデリアが輝いている。

「あのシャンデリアはAR(ホログラム)ですよ。」

 隣で聞こえた声に驚いて振り向くけれど、柔らかなソファからは立ち上がりきれず、またソフに沈みこんでしまう。目の前にいる人物が、"本物"かどうか気になって足元を確認した。

「あ、あなたは先ほどの……」

 冴島夏希が可笑そうに笑う。

「僕はホログラムではないです、触ってみます?」

「……い、いえ。」

 やっとそれだけ言って、どうにか蓮は立ち上がった。

「冴島さん、初めまして。申し遅れました、第三セクター〇〇会の百瀬蓮と申します。」

 つい癖で名刺入れを取り出そうとポケットを探り、デジタル名刺にしたんだったとホログラム画面を操作して"ドロップ"しようとする。

「あ、大丈夫です。先ほど会議の参加者データを頂きましたので。百瀬蓮さんですよね?」

 存じ上げています、先ほどのご発表も興味深く聞かせていただきました。

 そんな冴島の社交辞令に困惑しつつ、こちらもテンプレートの謙遜でやり過ごす。

「そうだ、百瀬さん。もしお食事まだでしたらご一緒にいかがでしょうか。」

 営業スマイルであるのは間違いないのだが、天才少年のその言葉の真意は全く読めなかった。突然の食事の誘いに、断り方を考える暇もなく冴島が天井を指さして小さな声で続ける。

「ここのフレンチに行ってみたかったんですが、ひとりではどうしても入りにくくて。美味しいと評判らしいですよ。」

 いけ好かない爽やかな口調ではあるが、よく考えたら目の前に“本物”の天才少年、冴島夏希がいる時点で夢のようなものでもあるのだった。そう思うとここで断ってしまうのはもったいない気がして、蓮はいいですよ、と言って頷いた。


 エレベーターはこっちです、と言って歩き出す冴島の後ろで、その皺ひとつないスーツの背中を眺める。背は蓮より少し低いようだった。十も年下のかの天才少年に勝るところなど、この身長くらいのものだろう、と蓮は密かに自分の身長をありがたく思った。そうとも知らない冴島はいくらするのかもわからない良さそうな革靴ですたすたと歩いていく。蓮は慌ててその後を追いかけた。

 最上階のレストランは窓際にテーブルが並んだシックな色調の高級レストラン……を想像していたのだが、開いたエスカレーターの扉の向こうに茂る緑を見て呆気に取られた。隣で冴島がにやっと笑う。

「ね、良いところでしょう。」

 お忍びで来やすいかなって思っていたんです、機会がなくて来られてなかったけど。

「一部ホログラムですけど、殆どは本物ですよ。」

 そう言いながら冴島は蓮を振り返った。

「僕が監修したんです、5年ほど前に。」

 こんなところでも才能自慢か、などと今日のオジ様方は皮肉りそうなところだが、まるで本物の森の中にいるような街中の別世界に、蓮はただただ目を奪われてしまっていた。

 エレベーターを降りた先は一畳ほど枕木が敷き詰められており、玄関ポーチのようになっている。その先も枕木で作られた木道が奥へ続き、枝を伸ばす木々の向こうで微かに水の流れる音とフォークの金属音がする。よく見ると、2、3メートルまでの樹高の樹は"本物"なのだが、それ以上の木々はホログラムで再現されているようだった。

 5年前というなら、冴島はまだ海外で学生生活をしていたはずだった。VRの研究開発チームに加わった頃のような気もして、VRだけでなくデザインの才能もあったのかと、天才の隣に立つ自分の平凡さを呪いそうになる。後ろ向きな思考を追い払うように、蓮は疑問を口にした。

「5年前というと、冴島さんが企画チームに加わったのもその辺りではなかったですか。」

「そうです! よくご存知で。」

 実はここを設計したのを買われて、正式にチームへの参加が決まったんです。

 冴島の説明を聞きながらウエイターに案内された席は店内の奥まった角席だった。向かって右側は街を一望できるよう一面ガラス張りになっている。周りを見渡すと隣のテーブルとの距離もある程度離れており、しかも目隠しのように低木の馬酔木(アセビ)が葉を広げている。確かにこれは、冴島がお忍びで、と検討するのも理解できるような気がした。

 窓の外を見下ろすと高層マンションにも引けを取らないほどの高さで、この高さまでくると、藍色に染まりつつある雲の向こうに夕焼けの名残りがわずかに感じられた。一方、はるか下の街に目を向けるともう日が陰っていて、ビル群のライトが点々とつき始めているようだった。

 グラスが運ばれてきて、蓮は視線を室内に移した。ウエイターに軽く会釈をして、向かいの席で冴島がグラスを手に取る。

「百瀬さんは普段どんなお仕事をされているんですか。」

 改めて向かいの席に座る冴島に目線を合わせると、あの天才少年が目の前にいるなど未だ現実味がなく、やはりホログラムかと疑いたくなるほどだった。

「VRの時間を速める、ということはまだ"許可"されていません。」

 手慣れた様子でナイフを使い、器用に料理を口に運びながら、冴島がVRの現状を話し出す。

「例えば、VRの教室内で2倍速の講義動画を見ることは可能ですが、1倍速で見たものを"早送りする"ことは禁じられています。それはつまり、体感で1倍速ですが、"目が覚めてみれば"まだ半分の時間しか経っていない、という状況のことです。これをVRの時間を速める、と表現しています。」

 現実世界において2倍速で見ることと、VRにおいて2倍速で見ることは同じだ。これはいい。一方で夢の世界のように、1時間しか眠っていないのに長い夢を見ることができるような状況を、“VRの時間を速める”と言うらしかった。

「……それは、この国の法制度ということでしょうか。」

 自分の研究分野について話すのが楽しいのか、蓮が時折こうして疑問を口にすると、冴島はうんうんと頷いて丁寧に説明してくれる。

「いえ、これは国際的な取り決めです。覆そうという動きもありますが、しばらくは変わらないでしょう。国にも企業にも、いろいろな思惑やしがらみがあるのです。今はまだ、VRは現実世界の補助でしかない。延長線上でしかない。それでいいという意見もあれば、もっと可能性を探ろうという動きもある。」

 嬉々として話をしていた冴島が、ふと真面目な表情を浮かべて蓮を見ていた。蓮はグラスのワインを一口含み(冴島は未成年のためアルコールは頼まなかった)、冴島がしゃべりだすのを待つ。テーブルの一角をじっと見つめていた冴島がふっと表情を戻し、また話し出した。

「VRを開発運営する僕の会社は、後者に当てはまります、その方が儲かりますから。」

 そう言って今度は窓の外に目をやる冴島の、どこか鋭く寂しげな横顔を見ていた。

 爽やかな笑顔を振りまく天才少年のイメージしかなかった冴島夏希が、どこか人間らしく見える気がした。天才は天才なりに、冴島は冴島なりに、考えや理想があるということなのだろう。ただ、それを知ってもやはり手放しには共感や賛同はできないというのが、蓮はどこか残念でもどかしかった。冴島は決して、蓮が守りたいあの小さな暮らしを守ろうとはしないのだろうとわかっていた。けれどその一方で、向かいに座るこの青年にも人の体温があるということを感じていた。それは戦場で敵に湧く情のようなものではなく、どこか安堵に似ているようにさえ感じるのが蓮には不思議だった。沈黙を繋ぐ余韻に身を委ねて、蓮はまたワインを小さく口に含んだ。


「そういえば、どうして俺に声をかけたんですか。」

 ふと当初の疑問がまた頭に浮かび尋ねると、冴島はついさっき見た人がいれば声をかけますよ、といつもの爽やかな笑みで答えた。

「百瀬さんは他の参加者の方と比べても明らかに僕と歳が近いですから。話してみたいな、とは思っていました。」

 いつも限界集落を回っているせいで、蓮は今日の会合のメンバーをそれほど年配とは思わなかったが、確かにまだ十代の冴島からすれば、ひとり若い蓮が気を許せる相手に見えたのかもしれない。

「どうですか、"天才少年"の感想は。」

 少し笑いながらそう言って、こちらを試すような悪戯な目で冴島が見つめてくる。蓮はそうだな、と街灯の灯る街を見下ろして言葉を探した。

「……やっぱり、天才、と呼ばれるだけはあって才能があるのだなと。」

 冴島が声を上げて笑った。よく言われます、そんな言葉も嫌味に聞こえないくらい開き直った笑顔だった。それで? と目線で促され言葉を続ける。

「だけど、想像していたよりは何というか……」

 ふと窓ガラスの反射越しに冴島の視線を感じて向かいに座る冴島を見やるとばちりと目が合った。また、何か蓮を試すような、何か心の内を見透かされそうな微かな笑みで、冴島が続きを促す。

「……何というか、人なんだなと思いました。育った場所があって、目指すものがあって、食事して、生きているんだなと。」

 蓮をじっと見つめていた冴島がふっと見透かすようなその視線を解いた。

「僕は人間ですよ。」

 僕は、人間です。そう静かに繰り返す冴島は窓の向こうに消えた夕焼けをぼんやりと見つめているように見えた。高いスーツに身を包み、あれほど堂々と取材を受け、営業スマイルを振りまく冴島がまるで別人のようだった。それほど、蓮とたった十しか年の違わない目の前の青年に、いつもの爽やかな笑みは似合わなかった。

「……でも。」

 けれどそう言って冴島がまた目線を蓮に移したときには、今までにない鋭さを含んだ目で蓮をじっと見据えていた。その目から逃げてはいけない気がして、蓮はかろうじて視線を逸らさず冴島の言葉を待った。その瞳の鋭さによく合う、冷たい口調で、冴島が言葉を続ける。

「僕は人間です。でも、利用できるものは全て利用します。天才少年で名が売れるなら、売る。手が届くものは全て手に入れる。今はまだ手が届かないものでも、いつか掴みます。あなたが成し得ないことを、僕は成してみせますよ。」

 まるで蓮を挑発するかのようにそう言って、ではまた明日の会議で、と冴島が席を立つ。冴島が歩き出した靴音に、やっと呪縛が解けたように蓮ははっと我に返った。慌てて冴島さん、と声をかける。

「今日は貴重なお時間をありがとうございました。」

 振り返った冴島に、蓮はしっかりと頭を下げた。

「いえ、こちらこそありがとうございました。」

 そう会釈を返す冴島が最後にまた、射抜くようなその鋭い視線をふっと緩めたような気がした。



 蓮が冴島夏希と出会ってから約3年で、冴島は熊野古道周辺地域のVR公開にこぎつけた。三重の山奥でそのニュースを感慨深く見つめていたのももう2年も前の話で、今では他のエリアの公開も近づいているという。蓮も、一般公開に先駆けて実施された地元住民向けの先行公開に参加していた。今でもアップデートのたびに(確認を兼ねて)ログインするようにしている。四季の変化も(現実の方が細やかではあるとはいえ)再現されているし、薄暗い古道の湿った風や、不意に香る草木の青い匂い、滑る落葉、脇の岩に茂る苔といった“現実を現実足らしめている”小さなものを、冴島たちはとてもよく表現していた。最初は冷たい目で見ていた蓮の周りの人たちもその技術の高さには驚いたようで、蓮は心の中で、あの日会った青年を少し誇らしく感じたものだった。

 あのホテルでの食事以降、冴島と直接話をする機会というのはなかった。風の噂程度に聞いた話では、現地調査や細部の調整、住民との意見交換などのため、職員が視察に来ただとか、あるいは冴島本人が訪ねて来たこともあったらしい。けれど結局、蓮が本人と会う機会はなかったのだった。一方で、蓮が冴島の出演するニュースを見るたび、つい目で追っているのもひとつの事実でもあった。

 蓮は、冴島があの会合の時に語っていたあの嘘くさい建前が、本当に方便だと切って捨てることができなかったのだった。そんな風に表と裏で言い表すことができるような、平たい悪人でもなければ典型的な野心家でもないような気がしていたし、世間が天才少年(今では天才青年だが)と呼ぶほどの、何か純粋無垢さで出来上がっているようにも思えなかった。けれどどれだけ冴島のインタビューから何かを読み取ろうとしても、彼は綻びもなく、ただ純粋な天才を演じ切っているのだった。そのせいか、返ってあの日見た、冴島のこちらを試すような鋭い瞳を、蓮は忘れられないのだった。

 つい昨日も熊野古道群を含むエリアでアップデートがあったというので、蓮はダイブ用の装置の電源を入れた。ダイブするときはベッドでもいいのだが、何となくクッションソファを使っている。最初のダイブのとき、冴島が「リクライニングチェアをダイブの時に愛用している」と語っていたのを思い出して、ふとそのクッションソファが目に留まったのだった。結局そのままずるずるとダイブのときに使い続けている。

 現実にかなり近づいたとはいえVR空間には慣れないという人も少なくはないが、蓮ももう2年もたつと慣れたもので、ログインが完了すると、朧月が青白く照らす夜の古道の入り口に向かって砂利道を歩いた。熊野古道よりも先に伊勢神宮がVR公開されている関係で、スタート地点の初期設定が伊勢神宮前になっているのだった。

 伊勢神宮の境内を抜けた少し先に、熊野古道郡のエリアが配置されており、エリアマップを開いて簡単な操作すれば、いくつかの地点に“ジャンプ”することも可能だ。

 こうした夜の時間帯は、地元住民限定の公開となっている。実際にこのVRエリアを借りたり購入したりして“持ち家”のある人や、地元住民のIDでログインすれば、時間に関わらず見て回ることができるようになっている。鈴虫の声を聞きながら晩酌でもしたらどうだろう、などと思い始めると想像が膨らみ、小さくてもいいから土地を借りて家を建ててもいいかもしれない、と割と本気で考え始める。

 古道の入り口は、月光の下、闇が大きな口を開けているようにも見えた。現実ではこんな夜遅くに山に入るなど命知らずなのだが、こちらの世界ではマップが現在地を知らせてくれるし、いつでもジャンプして戻ることができる(現れるポイントは決まっているが、飛ぶのはエリア内のどこからでも可能)ので余計な心配事がなく、現実よりずっと自由に歩いて回れるのだった。

 古道の奥からぼうっと風が吹き、蓮の足元を抜けていった。玉砂利を月光が青く照らしていて、空を見上げると先ほどより雲が晴れ、満月に近い月が浮かんでいた。軽い立ち眩み(VR酔い、だろうか)がして、足元で玉砂利がじゃりりと音を立てる。

「……ここは気に入ってくれていますか?」

 古道の方から聞こえた若い声にはっと目を凝らす。古道の暗がりの奥から軽い足音が近づいてきたかと思えば、よく知る青年の顔がようやく見えてくる。

 “本物”の冴島夏希を見るのは約5年ぶりだった。画面越しと何ら変わらない天才青年の、そのイメージを崩さない純粋無垢そうな、無地の麻っぽいラフなシャツと、紺色のストレートパンツ。

「こんばんは。」

 冴島はそう言って、久しぶりに見る笑みで蓮の前に立った。

 こんばんは、そう言って蓮も軽く頭を下げた。

 数年ぶりの冴島は以前より少し大人びた風にも見えた。もちろんVRではアバターのビジュアルは変更可能だが、あまりに本来の身長や体重とかけ離れてしまうと動きが不自然になりやすいと聞き(まあそれも最初のうちだけかもしれないと思いもしたが)、蓮はそのままダイブしている。冴島(のアバター)も、蓮の眼にはニュースで見ていた最近の冴島と同じように、つまり現実世界とリンクしたビジュアル設定のように見えた。残念ながら蓮の服は初期設定のままなので、冴島のようなカスタマイズはしておらず、紺色のポロシャツ(現実でも似たような恰好をしている)姿になっている。そろそろ朝晩が冷え込むので(それも忠実に再現されているが、半袖で過ごせているということは不快さの再現度は意図的に低く設定されているのかもしれない)、明日にでも冬仕様に変更しよう、と蓮は頭の隅の方で考えつつ、月明りの似合う、不気味なほど肌の白い冴島を見やった。

 冴島がふっと笑って、折角だから散歩でもしませんか、と先ほど歩いてきたはずの古道の方を指した。

「僕はちょうど確認作業が終わったところなので。」

 もう23時だというのにちゃんと休んでいるのだろうかと、ふと心配の念が蓮の頭の隅をよぎる。けれどこんな風に冴島とゆっくり話せる機会を、みすみす逃そうとは思えなかった。いいですよ、と言って蓮は冴島に先立って歩き出す。すぐ後ろで冴島がウィンドウを操作したような気配があり軽く振り返ると、灯篭のような手のひらサイズのライトがポップして、蓮たちの数メートル先をふわふわと浮いて足元を照らしてくれる。課金も何もしていない蓮はいつも暗がりの中歩いていたので、橙色の灯りが先導してくれるのは物珍しさがあった。

 山肌を削って作られた古道は、両脇から木々の根が張り出している。古道を入ってすぐは綺麗に整えている部分もあるが、しばらく行くと少し歩きづらくなっている箇所もある(現実の方は費用負担が大きく補修が追いついておらず、一部通行禁止区域もある)。現状のまま再現するか、崩れる前を再現するかで議論があったのだが、写真などをもとに、ある程度整備が行き届いていた頃の姿を再現してもらっていた。

「ここも、冴島さんが手がけたんですか。」

 声が暗い木々の向こうに吸い込まれていくのも現実のままだった。

「いえ、基本的な『保存』と再現については、他のメンバーに任せていました。僕が担当しているのは主に五感の再現です。山の匂いや、岩の冷たさや、湿った風、月明り。あとは葉の擦れる音とか。」

 冴島はやけに穏やかな声でそう答えた。

「確かに、こうして歩いていると、そうした再現にこだわってらっしゃるのがよくわかります。」

 連の言葉に、冴島がふっと笑う。

「それは光栄ですね。」

 冴島の返答に、少し影があるような気がして、蓮は隣を歩くその顔をそっと覗いた。けれど冴島は何もなかったかのように、なだらかな坂道の先を見据えているだけだった。言葉を探して、蓮は躊躇いがちに口を開いた。

「確か、冴島さんは小さい頃田舎の祖母の家にいたと、そうおっしゃっていたと記憶していますが、今も自然がお好きなんですか。」

 それには答えず、冴島は少しだけ歩幅を広くしてぐんぐん坂を登っていく。

「どんな夢を描いて、人は……でしょうか」

「……え、すみません今なんと」

 慌てて追いつこうと息の上がり始める(こんなところまで再現されているらしい)蓮を待つように冴島が足を止めて振り返った。暗闇で見えないものの、蓮は射貫くような眼のその鋭さを思い出さずにはいられなかった。

「冴島という人物が、これほど手をかける理由は何なのでしょうか。僕が拘っているのは、VRの可能性でしょうか。それとも、現実の再現性でしょうか。」

 まるで他人事のように、そう宙に向かって問う冴島のすぐ脇で、灯篭が呑気に柔らかい光を放っていた。ふと、冴島が蓮の方を向いて表情を緩めた。

「さっき、聞き損ねてしまいました。百瀬さんは、ここを気に入ってくれていますか?」

 灯篭の揺れる灯りの下では、やはり、そう蓮に問う冴島の、その眼の色までは伺えなかった。

「僕は少し寂しく感じます。」

「寂しい……?」

 聞き返す蓮に、冴島は答えなかった。その代わり灯篭を慣れた手つきで操って、木立の奥を照らし出した。夜風が吹き、一面のササが風を伝えるように揺れる。

「まるで見知らぬ世界のようで。僕が過ごした、あの木陰の涼しさも、夜中に懐中電灯を持って連れて行ってもらった散歩道も、夜露で湿った風も。氷の張るような冬の早朝に、頬を刺す冷たさも。全部、ここでは見知らぬ世界を見ているかのようで。」

 まだまだ、僕が思い描くものには及ばない。

 そう独り言のように続ける冴島は、彼の言葉通り、少し寂しげであるように蓮には見えた。

「……今度、俺の家に泊りに来ますか。」

 気がつけば蓮はそう口にしていて、失礼だったかと弁明しようと口を開くが、先に冴島がいいですね、とほほ笑んだ。話はまとまったとばかりにまた歩き出す冴島を追って、慌てて蓮も歩き出す。

「いやいや、めちゃくちゃ田舎ですよ? 隙間風はすごいしトイレも汚いし別に面白いところもなんもない山奥ですよ」

 可笑しそうに冴島が笑って、不意に灯篭をウィンドウに仕舞った。ちょうど少し木立の途切れた場所で、数秒たって闇に目が慣れてくると月明りだけでも冴島の表情がよく見えた。

「蓮さんが救えないものを、僕はここで救っているんです。」

 月下の冴島は(何か特別な補正でもかかっているのではと思うくらい)ゲームマスターかのごとく様になって見えた。

「あなたが個人の力で絶対に成し得ないことを、僕は必ず実現させます。」

 だから蓮さんはあちらの世界で、僕が拾いきれないものを決して捨てないでください。


 蓮にはそれが、射貫く鋭さでもなく、嘘くさい理想でもなく、ひとりの青年の、あるひとつの決意のように思えた。









***

(12288字)


参考:熊野本宮観光協会ホームページ

(ただし参考であって現実とは全く関係ありません)

最後まで読んでくださりありがとうございました。僕が見た夢をもとに生まれた作品であり、今までで一番の長編となりました。
後日、後書きを書きたいと思っています。よろしければそちらもお読みいただけると嬉しいです。


最後まで読んでくださりありがとうございます。読んでくださったあなたの夜を掬う、言葉や音楽が、この世界のどこかにありますように。明日に明るい色があることを願います。どうか、良い一日を。