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溝は飛び越えられないけど「共感した」それだけでいいですか

中学生のとき職場体験というのがあって、地域の総合福祉センターにいったことがある。僕の母親は高齢者施設で働いていたから福祉には興味があったのと、あと小さい頃の検診とかでお世話になったことがあったので、僕はそのセンターに行ったのだ。

一番楽しかったのは、とある交流会に参加させてもらった日だった。時間になると8人くらい人が集まってきて、紙コップやらお菓子をテーブルに広げた。

交流会は週に1、2回開かれているらしい(今はどうかわからない)。童謡のタイトルを取って、ほんわかした感じの名前の交流会だった。実はその交流会に参加する前日くらいに、福祉センターのHPでその交流会について調べたことがある。そこには「障害の有無や年齢に関係なく」「だれでも」参加できると書いてあった。

、、、なんかそう言われると気になってしまって。最初はちょっと不安だった。僕の育った地域は年配の方が結構いたので年上の方とお話することに不安はなかったけど、そうは言っても仲良くできるかなとか、めっちゃ暗い話が始まったらどうしようとか。

でも参加してみたらそんなことなかった。若い人も2人いて(20代後半くらいの人と30代くらいのどちらも女の人)、ブラックコーヒーが飲めない僕にカルピスを入れてくれた。みんな好きなように折り紙とか編み物をしながら雑談するような空間だった気がする。一番若そうな女の人が、ビーズのブレスレットの作り方を教えてくれた。

僕は最初、若い2人は主催者(福祉センター)側の人かもしくはボランティアなのかなって思っていた。その二人以外の方は年配の方が多くて、運動がてら参加したっぽい人もいた。身体障害でない障害をもっているのかなと思う人もいた。

でも若い2人の女の人は街ですれ違うような、どこにでもいる普通の人だった。

そこまで考えて、僕は疑うことってすごく失礼だなって思ったんだ。
どこにでもいる普通の人だからこんなところに来てはダメなのか?
普通の人に見えるのに普通の人じゃないんだ、なんて思った自分が今さっきいたよな?

その人は学生時代不登校だったかもしれないし、前の職場で馴染めなかったのかもしれない。でもそれって、ここでは何も関係ないよなって気づいた。僕がその人にビーズのアクセサリーの作り方を教えてもらうのに、何の関係もないことだなって。
この交流会に参加している人は何か問題を抱えているんだなんて、そんなこと考えること自体が凄く失礼な話だと思った。その若い女の人達に対してだけじゃなく、参加していた8人くらいの人全員に対して、少しでも疑うような気持ちを抱いたことを僕は申し訳なく思った。


運動不足解消のための散歩がてら参加してもいい。人と会話するために参加してもいい。だってそういう場所なのだ。自由に、誰でも参加できて、嫌だったらいつでも帰っていいって、そういう場所だったのだ。






高校2年のとき、僕のクラスには耳が聞こえづらい子(以下Cちゃん)がいた。高1のとき、体育の選択授業(ダンス・柔道・剣道が選べて僕とその子は柔道だった)で組んだことがあったから、時々話すくらいには仲が良かった。

あるときロングホーム(総合的な学習)の時間に、差別・偏見関連のお題から一つ選んで800字くらいの作文を作るという課題が出た。僕は中学生の時のことを思い出して、障害についてのお題を選んで、さっき書いたような趣旨の作文を書いた。

次の時間クラス全員分の作文が回収され、先生が適当に近くの席で5人班を作るように言った。各班に先生が作文を各班に再配分し、班内で回し読みすることになった。自分が書いた作文はどこの班に行ったのだろうと思っていたら、たまたま自分の班に配分されていることに気づいて恥ずかしかった。このあと班内で各作文の感想を言い合うことになっていたのだ。

僕の班にはCちゃんもいて、僕は心臓がバクバクしていた。だって僕が感じたことをそこそこ赤裸々に書いたから、もしかしたら気に障る表現があるかもしれない。何にもわかってないくせにって思われるかもしれない。
僕はそれが本当に怖かった。僕はCちゃんのことが割と好きだったから(僕は女子が苦手なので「好きだ」って思う子なんてほとんどいない)こんなことで幻滅されたら残念どころじゃない。

でもCちゃんは僕の作文を読んで「susukiのこの文章好きだよ」って言ってくれた。読み終わってすぐ、僕の方を見て笑ってそう言ってくれた。正直不安だったからすごく嬉しかった。


僕はそのときのCちゃんの笑顔を信じていてもいいのかなあ?
たまに不安になってしまう。


結局、「疑うのはすごく失礼だ」と思ったところで実際の場面で偏見とか違和感みたいなものがなくなるのかというとそれはまた別の話だ。Cちゃんと話すときだって、僕はぎこちない態度のときがしばしばあっただろうと思う。他にも、赤と白の杖をもって歩いている人とすれ違うとき、車いすに乗った子とすれ違うとき、僕はどうしても不自然に視線が行ってしまう。でもだからと言っていつものようにスマホ片手に道の真ん中で立ち止まるなんて迷惑な話だ(ゲーム中とかついやってしまうことがあります、、、)。
じゃあどうすればいいのか、なんて考え始めると終わりがない。

僕は、そういう壁の乗り越え方を知らないなってずっと感じてきた。どう接したらいいのかわからなくて、手探りで進むしかないから不自然になる。「気にしないように」って気にしている感じ。相手との距離感とか接し方を覚えると、そこそこ自分らしくいつも通り接することができるような気がしているんだけど。


『ひだまりが聴こえる』の中では、僕の言う「壁」は「溝」という言葉で表現されている。

僕は主人公の太一のように、そんな溝を軽々飛び越えてしまうタイプではない。多分僕は、その溝をのぞき込んで不安になって、どうすればいいだろうと考えながら手探りで橋を架けようとするタイプだ。
ひだまりが聴こえるの中ではヤスと似ていると思うし、難聴の航平の言葉も耳が痛い。

太一の中には偏見がないから誰とでも仲良くなれるのに、自分にはあるのだと。「耳が聴こえない奴なんて可哀そう」「そんなやつにはなりたくない」

多分僕の中にはそう思っている自分がいる。
それは正しくないと思う。でも気にしないっていうのも難しいかもしれない。

でも、「障害のせいで自分から離れて行っても仕方ない」って、「諦められても仕方ない」って、「障害のない自分にできることなんてない」なんて思いたくない(思われたくない)。その溝をどうにかしたいと思う。

せめて疑わないってそれだけは言い聞かせている。別に不登校だからってその子と関わっちゃいけないわけじゃない。僕の高校時代のある友達は他校で問題起こして僕の学校に来て、さらにこっちでも生徒指導受けていたけれど僕の中では普通の友達だった。Cちゃんは柔道経験者で体育のときはいつも教えてもらっていた。僕がときどき話題に挙げる友達(男子)は、出席日数ぎりぎりで高校を卒業した。

溝の向こう側、壁の向こう側をこっそりのぞき込もうとしたって普段のその人には出会えない。
それなら僕は「おはよう」と手を振りたい。小説とか映画とか趣味の話で盛り上がりたい。偉そうなこと言うな、何も知らないくせにって言われるかもしれない。言われても仕方がないと思っている。同じ状況の人にしかわからない「言われたくない言葉」ってきっとあると思う。僕がそういう言葉を使ってしまっている可能性は十分にある。

その場合は見るのをそっとやめてしまって大丈夫です。(そもそもここまで読んでないかな)



僕もあまりET見えませんでした。前は好きだったのにしばらく前からどっきり系の番組も、クイズ番組でさえも怖くて楽しめなくなった。ここ半年くらいニュースも避けている。学校の1限に遅刻するようになった。友達と雑談できなくなった。テンションの低い日はLINEを通知オフにするし(Twitter等はやっていない)、noteの記事だって読みに行けない。簡単に傷つくから家族が見ているドラマも一緒に見れなくて、いつも夕飯が終わると部屋に閉じこもっている。
僕は芯のある人が好きだ。深く考えられる人っていう表現と似ているのかもしれない。言動の裏にある価値観や信念みたいなものを感じられたとき、僕は「ああこの人好きだなあ」って思う。

共感した、それだけでもいいですか?太一のように、軽々溝を飛び越えるなんて僕には想像できない。でもそんなとき、ブレスレットの作り方を教えてくれた人を思い出す。高校のときのあの子の言葉と笑顔を、僕は今でも信じていたいのだ。僕は何の不幸も経験しないただの大学生だけど、noteで出会ったその感性にただ共感したことを残しておきたいと思ったんです。それが、目の前の溝に対する僕の対処法なのかなって思う。太一のようになれたら一番いいのかもしれないけどそれは難しいから。


明日が良い一日になりますように。
また記事を読みに行きます。










紹介した漫画
文乃ゆき『ひだまりが聴こえる』現在全5巻(2020年10月時点)
いわゆるBLですが恋愛感は薄いです。よかったら読んでみてください。


最後まで読んでくださりありがとうございます。読んでくださったあなたの夜を掬う、言葉や音楽が、この世界のどこかにありますように。明日に明るい色があることを願います。どうか、良い一日を。