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猫のかわいさ成分はしっぽに詰まってると思うんだ

書き出しばかり長ったらしくつまらなくなってしまった。事実を書き下そうにも観念によって歪められ、言葉足らずがディテールを削ぎ落としていく。狭いバスタブに身を屈めながら肩まで浸かり、ぽーっと温かさに興じているといくつかの考えや解釈が浮かんではそれぞれがぶつかり合い、あぶくと一緒に消えていく。鏡に映った人の顔は見る度に不自然に笑みを浮かべている。鏡に映っていない方のぼくは、わざわざ曇り止めなんて塗らなければよかったなんて言ってるみたいだ。ぼくや、ぼくの目の前にいる奴は交互に言葉を手向けている。もう耳を傾けるつもりもない。だって、ぼくらの疑似コミュニケーションはペンローズの階段を歩くのとなんら変わりがないのだから。

街明かりはブルー。真夜中にも関わらずきらびやか街並み。鮮烈な痛みを引き起こす前兆にそれ以上の意味なんてなんにもなかった。ぼくは四則演算の答えを出すかのようにハッキリと吐いた。

家には”猫みたいななにか”がいる。いくつかいる。様々な装飾品を着飾っていて、それぞれ意味ありげに振る舞いをしているが、ぼくはその一つ一つを正確に捉えることすらできない。  ”それ”はなにかを訴えかけるように、声色を調子よく変化させながら鳴いている。できるだけ穏やかに見つめる素振りをして、適当なリズムで相槌を打つ。”それ”はひとしきり声を振り絞ると、瞬きする間に眠ってしまう。このテンプレートじみた一連の営みに心地よさすら覚え始めているらしい。一人きりになったぼくは”それ”の途方も無い寂しさに思いを巡らせる。しかしだ、そもそも”それ”には寂しさの受容体がないかもしれない。三歩歩けばめっきりなくなってしまうタチなのかもしれない。ぼくはなんら”それ”について理解をしていない。それらしい解釈も持て余している。じきに溶けて境界線が曖昧になっていくまで、分からないことは分からないままにしておけばいい。そういうことにしておこう。いちごパフェに見立てて話しかけるよりは幾分かマシだろう。

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