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3.11の話をする

もうすぐ3.11。もう10年も前のことなのかあとしみじみ思う。

わたしの実家は岩手県で、父方のばあちゃんちは津波でその名が知れ渡ってしまった陸前高田市。今回は、震災が起こったときの話をしようと思う。

地震発生のその瞬間、わたしは下北沢の路面店でアルバイトをしていた。ぐらんぐらんと足元がふらつく中で、「店頭のビンおさえて!」と、先輩から店頭に積んであったワインを押さえる指示が飛んできたのをよく覚えている。

だいぶ長い揺れだった気がする。バイト先の被害は店内奥のでかい塩のボトルが2、3本割れる程度で、とくに何ともなかった。やれやれ、と一息つきかけた瞬間にサッと悟った。「震源は?」「東京でこんなに揺れるってことは……」「まさか東北じゃあ、ないよね……?」

なんとなく、この数ヶ月?昨年くらいから、妙に地元で大きめの地震が続いていたということもあり、胸騒ぎが止まらなかった。もう反射的にパニックになり、泣き出しそうなわたしを、店長が「ぼくだよさん、大丈夫!落ち着いて!」と、肩をガッシと掴んで言ってくれて、少し正気を取り戻した。

その日はもうバイトどころではなくなり、家に帰ることになった。と言っても電車は止まっている。しばらくして動きだしたが、決まった短い区間を控えめに行ったり来たりする程度。まあそれでも無いよりはとても良いので、少しだけ自宅に近いところまで電車で向かって、そこからは自宅まで歩いた。1時間くらい。

帰宅してみたらなんか少し物が落ちている程度で、大いに片付けたりする必要はなくてほっとした。そんで、外泊の準備を始めた。

というのも、ちょうど母が都内の妹の引越しのために上京していたタイミングだったので、まあ身を寄せ合っていたほうが良いよね、ということで、かろうじて動いていたバスで妹のところに向かうことになった。心配なのは父と犬。でも住まいは内陸だし、わりかし早い段階で、母が安否確認できたらしく、「プロパンにしててよかったー(ガス使える)」とか言ってたっぽい。

それでもうとっぷり日も暮れた頃、母と妹と合流した。そうして、東京に住んでいる従姉妹とも連絡を取り合ったりして、情報交換をしたりした(といっても連絡がとれたとれないの情報くらいしかないが)。身を寄せあったところで、身を寄せあうことしかできないので、とりあえずテレビを見ていた。どこも地震の話題。震源はどこで、規模はどれくらいで、という情報が流れてくるものの、けが人死亡人行方不明者、たぶんたくさんいたと思うけど、把握のしようがなくて、報道の最初のうちはけが人30名死亡人1名とかだった。でもどんどん増えてきた。津波がやばかったことも把握できてきた。テレビに水没した陸前高田市が映った瞬間に母は泣いた。知っている、何度も訪れて歩いた街が沈んでいる。よく行っていた百貨店?「マイヤ」の看板、屋上部分だけが、水上ににょっきり見えている。「どうしよう……!壊滅状態、なんて初めて聞いたよ、どうしよう」って、本当に「ワッ」て泣いた。わたしはどこか冷めてて、(少なくともここからわたしらがなにかアクションを起こして、なにか出来るようなことはないから、もう、大人なのにしっかりせえよ……)みたいなことを思っていた。

そうして母がなんだか大変になっているが、父も父で大変になっていた。単身陸前高田市に乗り込む気満々であった。

テレビやらツイッターやらで、「助けに行った人も亡くなってしまった。下手に動くな」みたいな話もちらほら目に入ってきていたから、わたしも気が気でない。しかし、陸前高田の親戚(伯父)とは、震災直後にたまたま電話が通じて安否確認できたそれっきり。津波が来てからのことは何も分からない。電話も通じない。

気持ちはわかる。いやわたしは現時点で両親が無事だから実際わからないな。とにかく父が死ぬかもしれないことをしようとしている、ので、さすがにメールをした。

危ないから、父まで死んだらとてもつらい、ちょっと待ってよ、みたいな拙い文章だったと思う。でも父からは、「たった一人の親なんだ。」と返ってきて……「気をつけてね」としか言えなかった。祖父はわたしが小学生のころに他界していた。あと父、自分で決めたことは絶対曲げてくれないからね……(似てる)

それで、父は単身陸前高田市に凸って行った。営業車で行けば通してくれるかもしれない。って、会社の営業車をカッ飛ばして行った。実際、現地に着いてみると道はぐちゃぐちゃでびしょびしょ、まだご遺体がそこらじゅうに「浮いている」状態だったそうだ。

結果としては、現地で海から離れた高台に住んでいる親戚の家に、全員が避難できていて無事だった。これはほんとうに良かった。命あればこそ、だ。

ただそのときの話で、ゾッとしたことがある。地震直後、まだ津波がくる前、近所の人らが外に出て「すごい地震だったねー」なんて話していたそうだ。そんなところに、伯父が血相をかえて車で来た。

「なにしてんだ!!津波がくるぞ!!避難するぞ!!」

そういってばあちゃんたちを乗せて高いところへ避難してくれたそうだ。ばあちゃんも驚いて、「ええ、ごめんなさいね、心配性の息子がそう言ってるから、ちょっと行ってきますね」みたいな感じで近所の人とは別れたらしい。ばあちゃんちは陸前高田市高田町館の冲というところにあったのだが、海まで車で10〜15分くらい?まあまさかそこまで水は来ないだろうにという感覚だった。

そうして陸前高田市高田町館の冲は水没してしまった。命は助かったが、家もなくし、近所のお友達やお茶飲み友達は亡くなってしまったそう。伯父の的確な判断と行動力がなければ、命もなかったと思う。

父も無事に自宅に帰ってきた。一時的に伯父夫妻とばあちゃんを連れてきてた。賑やかそうな画像も送られてきた。良かった。

父から、ばあちゃんや伯父夫妻が無事だった連絡をうけて、東京に住んでいる従姉妹に無事だった連絡をする係になったので電話したら、従姉妹の姉ちゃんも安心して泣いてた。良かった。

それから数日、精神的に穏やかでないけれども、とりあえずシフトが入っていたのでアルバイトに行った。500g400円とかの、普段ほとんど売れないようなパスタとか、炭酸水のボトルとかが飛ぶように売れた。店も店でよくわからないツテで1L300円とかの謎の鉱水を入荷して売り出したりしてて、わたしは内心「うわああ……」と思っていた。お客さんも長蛇の列だしピリピリしていて、例の鉱水を2本も3本も握りしめながらレジに来て、「これって普通の水だよね?!赤ちゃんのミルクとかつくるのに大丈夫な普通の水だよね?!」とか問い詰めてきて、(普通の水ってなんじゃい……そもそもふだん置いてない水だからよくわからん……ググって……)とか思いつつなんぼあしらっても食らいついてくるからとても困った。あとは上からのお達しで、「あんま元気よく働きすぎても不謹慎だから静かめにしよう」みたいなのが出たり。それでいてお客さんには「そんな元気のないかんじで接客されてもね……こういうときこそ元気を……」とか言われるし。許してクレメンス。

それからちょっとして母は岩手に戻って行った。ばあちゃんは家がなくなってしまったので、しばらくわたしの実家に身を寄せていたが、ばあちゃんと母との折り合いや気を遣いすぎたりなんかで双方メンタルをすり減らしていたようだ。飼ってた犬も具合悪くなっちゃって(ミニチュアダックス12歳とかだったのだ)みんないっぱいいっぱいだった。

陸前高田市のほうでは、すんごい瓦礫がまあまあ片付いて道ができた。それで、道にそって写真がいっぱい並べてあるようになった。瓦礫から発掘された写真ね。そこを通りかかった人が、自分とか家族の写真をみつけたらどうぞ取って行ってくださいって並べてあった。誰のかわからないし生きているかもわからないし。そしたら偶然わたしの父の子どものころの写真がみつかったのだ。どこにしまってあったのか、逆に今までそんなに見たことのなかった写真だった。父(7さい)がランドセルしょって、ちょっといいツーピース?着て、パーマンの靴入れを提げてる写真。面白がって父は今のLINEアイコンにしてる。かわいい。

現在では、ばあちゃんと伯父夫妻は陸前高田のほうで、新しい家を建ててそこで暮らしている。両親は内陸で、週末に温泉に行ったり焼肉デートをしたり楽しそうに暮らしている。わたしも彼氏と家でシーシャをしたりして楽しく暮らしている。3.11からもう10年かーと思って、当時のことを書きなぐりたくなったので、思い出せるままに書きなぐってみた。最近また大きめの地震があったりして、当時を思い出して不安にもなるが、今はまた、当時とは違った行動を起こせるんじゃないかなと思う。守りたいものもできたし。

うまくまとめられる気がしないので、このへんで!

とっちらかって拙い文章ですが、長々と読んでくださった方、ありがとうございます。





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