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『ブルーピリオド』が最高のマンガだと思う理由5つ

月刊アフタヌーンにて連載されている山口つばさ先生のリア充美大受験漫画ブルーピリオド』。2020年には、マンガ大賞と第44回講談社漫画賞一般部門をW受賞するなど名実ともに人気を博しています。

ここでは僕が愛して止まない『ブルーピリオド』の魅力を 5つの観点から、ゆるりと語っていきたいと思います。


* * * * * *  *      注意      *  * * * * * *

この先 ネタバレが多々 あります。

また、以下の文章は コミックス11巻(47筆目)までを読んだ上で書いたものであることを念頭において読んで頂けると幸いです。



その1 「 美術 をテーマに スポ根 をやっている 」

   

アフタヌーン公式サイト では 『 ブルーピリオド 』を

” 美大を目指して青春を燃やすスポコン受験物語、
                  八虎と仲間たちの戦いが始まる! "       

(作品紹介 より 一部引用 )

と、紹介しています。
そこには、美術という一見地味なテーマからは想像もつかない 

       「  燃やす」「スポコン」「戦い 」

といったワードが並んでいますが本作を一読された方ならば、この挑戦的な文言にも違和感は覚えないでしょう。
ブルーピリオドを初め読んだとき、まずその熱量に圧倒されてしまったという人は僕以外にもきっと沢山いるはずです。

そして次に「美大受験」という一般に馴染みの薄い世界の内幕を垣間見ることで、その壮絶さに驚かされるのです。

この「 驚き 」は、読者の「 予想外 」から生じています。

僕たちは美術大学の受験を真正面から描く事で、こんなにも熱い青春物語が生まれることを知らなかった、思いもしなかったのです。

つまり本作の面白さは、凡そ親和性が無いようにも思える 美術 と スポ根 がこんなにも相性が良いという事実の驚きでもあるわけです。

これは作者である山口つばさ先生の大発見であり大発明であると言えます。


フランスの劇作家 ジョルジュ・ポルティは 「36の劇的状況」という概念を提唱し、「この世には 36通りしか物語は存在しない」という旨の主張をしました。

 彼曰く、形式的に要素分解をしていけば どんなに浩瀚な物語でも骨組みは 意外とシンプルで数え上げられる程度しか存在せず、すべての物語は36のパターンで分類することができる。というのです。

   以下、参考までにポルティの分類を個人的にまとめてみました。

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このことから、創作界隈では「すべての物語はシェイクスピアがすでに書き切ってしまった。 完璧にオリジナルな物語のアイデアといったものはもう無いのだ」 という悲しい常套句が生まれてしまいました。

確かに、クリエーターからすれば なんとも夢のない話ですが、このようにして物語の構造を研究する文学理論の分野を ナラトロジーと呼んだりします。

あのレヴィ=ストロースも神話の構造について論じてたりと、一般にナラトロジーは構造主義の研究領域として知られていますが、ロシア人の批評家である  ウラジーミル=プロップ がひと足先に物語構造の分類を研究していたため、ロシア・フォルマリズムの系譜としても語られる事の多い分野です。

そんなウラジーミル=プロップも、ロシアの各地に伝わる民謡の構造を分類分けした結果「すべての民謡は31の機能と7つの行動領域の組み合わせによって記述することができる」と同じような結論を導いています。

やはり、物語のアイデアは有限なのでしょうか?
これらの議論は、創作物に対する受け手側の視点にひとつの示唆を与えてくれているように思えます。

すなわち、たくさんの創作物で溢れ返った大洪水の最中にいる僕たちは、 36個しかない物語パターンの中から、すでにあるモノ同士をいかに自分なりに組み合わせて料理し、さも自分だけのオリジナルであるかのように読者へ提供できるか という点で作者の独創性を捉える必要があるのではないか、ということです。

上で書いた山口つばさ先生の大発見大発明とは、
   " スポ根の王道なプロットラインに美大受験を持ってきた "

という点に尽きます。
限られたパターンの中から美術をスポ根風味で調理すればこんなにも面白い作品が生まれるという事実に、今まで誰も気が付かなかったのです。

これは、作者の山口つばさ先生が実際に東京藝術大学を卒業しているからこそ、つまり実体験だからこそ結び付いたアイデアなのかもしれません。

それは作中に登場する、作品を創る上での失敗事例が異常にリアルな点と、そこから成功するまでの道のりがまるでパズルを解く手順であるかのように明快に緻密に描かれているという点からも窺えます。

1回の成功体験に引っ張られて次の作品が過去の焼き増しになってしまう。
なんて、机に向かって考えて出てくるようなエピソードとは思えません。
おそらくは、作者の実体験なのではないでしょうか?



その2 「主人公が 金髪ピアスの不良である」


主人公 と言えば、強く、かっこよく、正義感があり、みんなの人気者

誰もが思い浮かべる このイメージはギリシア神話に代表される英雄譚、
あるいは、"ブルターニュもの" と呼称される中世の騎士道物語を下地に広く伝播したものだと思われます。

しかし近現代においては一般の主人公像も多様化し、このようなイメージも薄れつつあるのではないでしょうか?

特に、村上春樹作品の影響下にある日本のライトノベルや漫画、アニメではペシミズムを根底とした思想から歳不相応に達観し、自発的に行動する事もなく、集団から孤立した、やれやれ系  とも呼ばれる主人公像が顕著に見られます。

そんな、今時の語彙を借りるならば インキャ とも呼べる主人公が跋扈する昨今、
            ブルーピリオドの主人公 矢口 八虎 はバリバリの陽キャです。

↑ この人
本作の主人公。金髪ピアスの努力型不良リア充。

なんなら第1話(1筆目)は、友人たちと スポーツBAR でサッカーの試合を観戦しつつ酒を飲みタバコを吸って、あげく明け方の渋谷でラーメンを啜っているところから幕を開けます。(八虎は高校生なので いろいろとアウト)

これまた今時の語彙を借りれば「 逆張りの逆張り 」な主人公像と言えるのかもしれません。

そして更にこれは「美術」に対するイメージからも逆張りになっています。

天才の感覚的なものというイメージの美術を題材とした漫画の主人公に、
理屈で物事を考える秀才タイプ という真逆の設定を与えているのです。

もしもブルーピリオドを平凡な作家が描いたなら、おそらく絵を描くこと関しては卓越した才能を有しているが、内向的で人と関わることに苦手意識を持っている天才肌なキャラ ( それこそ世田介のような ) が主人公となり、その主人公が美大受験をきっかけに沢山の人と出会い、成長していくといった在來なものになっていたかもしれません。
こういった点においても作者の非凡さが伝わってきます。

八虎のようなキャラを主人公にした事で得られる効能は他にもあります。

主人公を美術の素人 にすることで、主人公と一般読者の目線を同じにする  ことができるのです。

古代ギリシア語の πρωταγωνιστής (プロタゴニスト) から「主人公」という日本語を生み出した坪内逍遥 小説神髄の中で主人公のことを、
「 小説の" 眼 "となる人物」と定義しています。

冒頭ひとコマ目から、ピカソの絵の良さがわからない という旨のセリフで始まる本作は、美術という未知の世界に踏み込んでいく際のとして、とても共感しやすい目線を読者に与えてくれているのです。

更に本作では、「美術」という専門的な知識領域へ物語が踏み込んだとき、質問を投げかける役を配置することで退屈な専門知識の解説をストーリーの延長線上にもっていく、という構成を多用しています。

この「質問役」を主人公に演じさせることができる という点においても、
八虎の設定は有益に機能しているのです。

これは、劇作としても非常に優れています。

アリストテレスは「 詩学 」の中で、ストーリーにおける最も重要な要素を
登場人物行為であるとし、人物は行為を通して描かれるべきであると記述しています。

美術について何も知らない初心者であるにも関わらず、いちから油絵に挑戦して、藝大受験に挑む八虎という主人公は、まさにこの条件をピタリと満たしているのです。



その3 「ヒロインのポジションに男性を配置している」

 

僕がこの文章を書いている現時点(コミックス11巻まで)で
ブルーピリオドは1〜6巻の受験編と7巻〜の大学生編に分かれています。そして、それぞれ受験編と大学生編でヒロインが入れ替わります。

それぞれ見ていきましょう。
まず受験編でヒロインとなる人物は  鮎川 龍二  (ユカちゃん)です。

↑ この人。女装をしているだけで性別は男。 
八虎と同級生の美術部員で日本美術を専攻しています。

そして大学生編でヒロインとなる人物は 高橋 世田介 (セカイくん)です。

↑ この人。
八虎とは美術予備校で知り合う。大学生編では同期。

はい。そうです。2人とも 男性 なのです。

普通、ヒロインという言葉を聞いて思い浮かべるのは「女性キャラ」だと  思います。しかし本作では「男性」がそのポジションに就き、物語におけるヒロインの役割を男性キャラが担っているのです。

そして、なにも本作は ボーイズラブ(BL)を主題として描いている作品というわけではありませし、そういった趣向も感じられません。
それなのに「男性ヒロイン」が物語の上で聢と成立しているのです。

はてさて、物語においてヒロインとは、一体なんなのでしょうか?

僕なりの考えを述べるその前に、辞書的な意味を載せておきます。
オンライン辞書サービス  Lexico  では、ヒロイン のことを

heroine   /ˈhɛrəʊɪn/
 1.1 The chief female character in a book, play, or film, who is typically identified with good qualities, and with whom the reader is expected to sympathize.                                        ( Oxford Dictionary of English より)

小説、演劇、映画などに登場する主要な女性で、模範的な善良さを持ち、読者が感情移入することを想定されている人物。

と説明しています。

ここから普遍的な一般概念を抽出し、あくまで僕が『ブルーピリオド』を
語る上で想定しているヒロイン像を言語化すると、

主人公を主人公たらしめる存在

と定義するのが分かりやすいかなと思います。

作中では 龍二にせよ、世田介にせよ、それなりに面倒臭いトラブルを主人公である八虎に持ち込み、八虎を困らせています。

物語上の役割でいえば、まさしくヒロイン(Damsel in distress)です。

そして、八虎は主人公らしく活躍してトラブルを解決します。

この構成自体は、なにも珍しくありません。よくある王道のパターンと言えるでしょう。

けれどもここで少し穿った目線に立ち、この事象を逆説的に捉えてみると、龍二や 世田介が  " 主人公が主人公らしく活躍できる舞台設定 " を用意したおかげで、八虎はかっこいい主人公であれる、と解釈することができます。

面白いのは、ブルーピリオドの主人公・ヒロイン像が この補完関係のみで 構成されているという点です。だからこそ男性で成立してしまうわけです。

別の言い方をすれば、ブルーピリオドにおいてヒロインとは 古イタリア語で
「我が淑女」を意味する " ma donna " ( マドンナ )としての、ヒロインではない。ということです。

受験編と大学生編でヒロインのポジションとなる人物が入れ替わることに対し、ひっかかりを感じる事なく読み進められる理由はこれでしょう。
ヒロインをマドンナとして描いていないからです。だから、
   「 龍二という存在がありながら、なに世田介と浮気してんだよ! 」とは、ならない訳です。


さて、ここでもう1人、八虎にとって、物語にとって、最重要とも言える   人物の役割について考えてみたいと思います。

その人物とは、主人公 八虎が絵を描くきっかけともなった 森先輩 です。

 ↑ この人
八虎の先輩で美術部部長。卒業後は武蔵野美術大学に進学。

ブルーピリオドにおいて森先輩が担っている役割とは何でしょうか?
ヒロインとして挙げた龍二や世田介とは明らかに性質が異なっています。

1番大きな違いは、八虎との距離 でしょう。

森先輩は八虎たちよりも年上であり、物語の序盤で受験も終えてしまうため
同じ土俵で切磋琢磨する相手というよりも、少し離れた場所から優しく見守ってくれる存在という印象を強く受けます。つまり、目線が違うのです。

ですから森先輩は、ヒロインのように常に側にはいてはくれません。
しかしそれでいて主人公の心の支えとなり大きな影響を与え続けるのです。

そのような存在だとすれば、それは乃ち「 女神 」です。

本作では、森先輩を信仰の対象として神格化し「女神」のポジションに据えているのです。

森先輩を女神と捉えた時、先ず以て思い浮かぶのは5筆目の一幕。卒業間際の森先輩と八虎が美術室でお互いに絵を描き合う場面です。ここで森先輩は、これから受験に立ち向かう八虎へ「祈り」を込めた絵を授けるのです。

この様子は、女神アテーナーがメデューサ退治に向かう英雄ペルセウスに
青銅鏡を授けたというギリシア神話の逸話を彷彿とさせます。

そして、ことあるごとに森先輩の「祈りの絵」はある種の偶像として体現化し、八虎が露頭に迷った時や受験の直前などに指針として登場します。
それはまさしく「女神」だからこその演出だと思います。


また、八虎と森先輩との関係性において卒業式以来 再会していないというのも重要な観点だと思います。
この2人は、ことあるごとに接近してはいるのですが毎度の如くすれ違い、11巻現在いまだに再開することは叶っていません。

なぜ再会できないのでしょうか?
言ってしまえばそれは、作者がまだ許していないからです。
もし、会ってしまったなら「女神」としての機能が失われてしまいます。

そのことが印象的に描かれているのが、25筆目ラストのエピソードです。
藝大の合否が発表された数日後、再現作品を描くため高校の美術室を訪れた八虎。しかし、ここでもまた森先輩とすれ違い再会する事はできません。

けれど、森先輩は八虎の「作品」だけは目にするのです。

画像3

(引用:ブルーピリオド/山口つばさ )

この場所で 森先輩の絵を見たところから始まった八虎の美大受験。 
その終わりとして 対照的なこのシーンからは、
大学生活編においても「女神」として八虎を導くことが予感させられます。



その4 「 恋愛描写を極端に削っている 」


少年漫画では世界観の都合上、登場人物の恋愛感情及び色情が抹消されてしまう現象が往々にして起こり得ます。

それはブルーピリオドにおいても例外ではありません。
今後そういった展開があるのかもしれませんが、現状(コミックス11巻まで)において主要な人物に恋愛関係は発生していません。

恋愛を描かないという選択は作者の判断によるものなので、それ自体がどう
という事ではなく上に書いた通りありふれた現象なのですが、時に恋愛描写を極端に削ってしまうと読み手に対して露骨な違和感を与えてしまう場合があります。

特に本作のような、登場人物が平均して高校生から大学生であり現実世界を舞台にしている作品の場合、色恋沙汰がストーリーから極端に削られてしまうと、キャラクターが本来持っている生身の人間らしさが失われてしまい、
登場人物に感情移入することが難しくなるのです。

しかし、少なくとも僕は ブルーピリオドを読んでいて、そのような 不自然さを想起することはありませんでした。
ヒロインに男性を宛てがうほど恋愛に対し一線を引いている本作ですが、
登場人物にしっかりと感情移入して読むことができます。なぜでしょうか?


おそらくそれは、
            「 登場人物が " 作品 " を通して 感情を伝え合っているから 」
                           だと思います。

好き、で作品を語る 2

(引用:ブルーピリオド/山口つばさ )
左から 29筆目、38筆目、5筆目 より 

ブルーピリオドでは、登場人物たちが 心の襞のひだまでをすべて曝け出し、死ぬ気で作品と向き合っている姿が 繰り返し描かれています。

そんな彼らにとって、自分の作品を「 好き 」と言ってもらえること他人の作品を「 好き 」と言うことが、どれだけ重大な意味を持つか。

そうです。彼らは恋愛という表層的な価値観の範疇は疾うに超えて、もっともっと深いところで感情のやりとりをしているのです。

だからこそ、本作では露骨な友情や恋愛をわざわざ描かずとも、彼らだけの独特な「」が群像の中に生き生きと浮かび上がってくるのです。
八虎はそれを「 金属 」で表現しました。

恋愛感情というのは彼らにとってまさしく、
     本質ではない、上澄だけを掬ったようなもの   なのでしょう。

それは、猫屋敷先生の衝撃的なセリフ

ここに集約されているようにも思えます。
『ブルーピリオド』は安易な解釈を決して読者に与えないのです。



その5 「 ずっと " 1つ " のことを繰り返し描いている 」


アメリカの映画プロデューサー 兼 脚本家の シド・フィールドは自著の中で、" 事件 " こそがストーリーを転がしていくのだ、と述べています。

確かに、なんの事件も起きないストーリーなんて退屈すぎて読みたくはありませんし、そもそもストーリーと呼べるのかさえ不明です。

しかし、余りにもドタバタと連続で事件が発生して、その度に急展開が巻き起こり、新しいキャラクターがぞろぞろと登場するようなストーリーもそれはそれで困り物です。

目まぐるしく動き回る物語はまるでジェットコースターのようで、読み手も疲れてしまいます。

また、劇作の観点からも急展開が続くと作品が原型を留めることができずに膨張してしまい、作品自体の方向性が迷宮入りしてしまう可能性があるため注意が必要です。


さてさて、本作『ブルーピリオド』の作中では、主人公 八虎が予備校に通い始めたり、ヒロイン2人に振り回されたり、大学生活が始まったり、学祭の準備をしたり、絵画教室でアルバイトを始めたりと、ジェットコースターとまでは言わないにせよ、それなりに様々な事件が起き、登場人物の喜怒哀楽が入れ代わり立ち代わり描かれています。

けれど、こと「 ブルーピリオド 」に関しては この程度のドタバタで作品が迷宮入りするような事はありません。

全編を通して 物語としての根底がブレないのです。

迷宮入りどころか、新しい事件が発生するたびに『ブルーピリオド』という作品が持つ「らしさ」がより確固たるものへと進化しているようにさえ、僕は感じています。『ブルーピリオド』には不思議な一貫性があるのです。

ではこの一貫性とは、一体どこからやってくるのでしょうか。
僕は本作を何度も読み返し、ある答えに辿り着きました。それは、
     
 この漫画は、最初から一貫して "たった1つ" のことしか描いていない。

というものです。
これこそが、本作が強固な地盤を保っていられる理由なのではないかと、
僕は思います。

では、その1つのこと、とは一体何なのか?
それはズバリ、
      
      「 どうやって " 自分を表現 " するか? 」 
です。



ブルーピリオドは 自己表現 というたった1つのことを、手を変え品を変え、様々な角度から色々なアプローチで何度も繰り返し描き続けています。

作中で起こる事件や新たな人物との接触は、単にストーリを転がす為だけの起爆剤ではなく、すべて 自己表現 への紐帯となっているのです。


はじめは周りの人に合わせて要領よく振る舞うのが 八虎の自己表現でした。
その後、八虎は「青い渋谷」の絵を描くことで、内なる感情を真に伝える 自己表現と出会います。

絵を描き始めてからは、いかに自分を表現するか? という問いの連続です。言うなれば、その後のエピソードはすべて「八虎の自己表現が確立していくその過程の物語」と括れてしまうのではないでしょうか。

また、答えの無い美術という分野で合格・不合格が振り分けられる美大受験の不条理さも自己表現との摩擦という形で描かれています。

龍二が女性ものの服を好んで身につけているのも自己表現です。
本作では龍二のことを「女の子の可愛い服が好きな男性」として描いており、決してそれをジェンダーに関したリベラルな問題へと還元するような   描かれ方はされていません。あくまで自己表現なのです。

桑名さんは藝大に首席合格した姉の存在に苛まれながらも自己表現を模索し、その内に抱えた矛盾と葛藤しています。

橋田は猛烈な美術ファンとしての自分と、創作者としての自分に間隙を自覚しながらも、自分なりの美術との関わり方(自己表現)を手探りで見つけ出そうとしています。作風をユーモアにふっているのも、進んで人と関わろうとするのも、彼なりの手法なのでしょう。

世田介に関していえば、もはや説明不要ですね。

このように「ブルーピリオド」には、作中の諸々のエピソードすべてに統一された1本の筋が通っており、作品内を脊椎のように支えているのです。

だからこそ、ブルーピリオドは『ブルーピリオド』であり続けるのです。



* * * * * * * * * * * * * * * * * 

以上が僕の思う『ブルーピリオド』が最高のマンガだと思う理由5つ  です。
だらだらと書いていたら、こんな長文になってしまいました。
最後まで読んで頂いた方、本当にありがとうございます。

また本作は、この文章を執筆している現段階(2021年11月)において、
いまだ連載中であり、完結していません。そのため、今後の展開によっては上で書いた "僕の読み方" が破綻してしまうことも、十分にありえます。
その時はまた、『ブルーピリオド』について文章を書くかもしれません。

最後に、ここで書いた内容について、ご意見、異議申し立てなどありましたら、コメント欄に書き込んで頂けると嬉しいです。

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