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カメラを持たず出かけた日

連日の雨にうんざりした。その翌日、快晴。
これを逃すまいと、外出することにした。

しかし、行先が浮かばない。

いや、違う。思い浮かばないわけではない。
複数浮かんだ先に疑念を抱いている。

「私は本当に、そこに行きたいのか。」

考える時間が惜しくなった私は、行先を決めず、パソコン、スマホ、手帳を持ち、家を出た。カメラを置いて。

わたしのカメラ遍歴

私がデジタル一眼レフカメラデジイチを購入したのは2年前。
きっかけは、当時使用していたコンパクトデジタルカメラコンデジの電源が入らなくなったこと。

家電の多くがそうであるように、コンデジもまた、保証期間の満了直後から不調を訴えた。とはいえ、天候・場所など考えずに使用していたため、期間内でも免責(要は自費)だっただろうが。

5年連れ添った相棒パートナーの不調は、私を不安にさせた。
もう2度と、写真は撮れないのか。

しばらく待ったカスタマーセンターからの回答は「部品がない」。

そうか、部品がないか。
修理費以前に修理自体が不可能だったことが、憧れのデジイチへの第1歩となった。

コンデジと比較し、デジイチは5倍超の費用がかかった。
きちんと手入れすれば、メンテナンスにも手間と時間がかかるはずだが、そこはずぶの素人。最低限の取り扱いしか覚えぬまま、使用を始めた。

ハイスペックを持て余す一方、確実に恩恵を受けながら今日に至る。

すごいカメラだね

初めてのデジイチはすごかった。
コンデジでは届かなかったところに届き、肉眼より鮮明に被写体を見せてくれる。焦点フォーカス外を自然にぼかし、どんな場所でも主役を際立たせてくれる。

これがデジイチ。
自分が撮影した写真を見る度、疑心暗鬼に陥る。これと同時に、これまでの写真はいったい…と思った。無論、カメラが悪いんじゃない。私の腕が悪いのだ。

写真は、2度とない一瞬を鮮明に切り取ってくれる。
目で見るより鮮やかに、確実に。

ただ、写真が必ず「見たまま」でないことも心得ているつもりだ

デジイチのすごさが分かるほど、己の未熟さが浮き彫りになった。
こんな素敵カメラを腐らせてはいけない(宝の持ち腐れというやつ)。

単純な私は、どこへ行くにもカメラを持つことにした。
筋トレと同じ要領で、とにかく枚数を重ねることで上達すると考えたからだ。

日課や習慣は、度々自分の意識から消失する。

「すごいカメラだね。」

客先、コーヒーショップ、電車の待ち時間。
カメラが話題に挙がる度、私はデジイチを思い出した。

そうだ、私はカメラを持っている。

公私の堺

デジイチを見た人から「お仕事ですか」と尋ねられることがある。頻出だ。

「仕事」とは、他人からの依頼を報酬をもらって受けること。

となると、何かを「撮る」行為に報酬は発生していない。
あくまでも「プライベート」だ。

しかし、撮影データを業務で使用することも多く、一部は写真販売サイトに出品している。

こうなると、自分でもよくわからない。

「どっちもです。」

少なくとも100回を超える同様の質問を受けた今、こう答えている。

プロになればいいのに

非常に烏滸おこがましい話だが、写真を見た人から「プロになればいいのに」と声をかけてもらうことがある。
実際、プロになりたいと考えたこともある(今となっては大変な黒歴史だが)。

前項の繰り返しになるが、仕事とは「他人の依頼を報酬を得て受けること」だと考えている。これを写真を撮るという動作に当てはめると、「カメラマン」「写真家」がその道のプロだろうか。

おそらく、写真に関する国家資格はない。
写真自体を規制する法律もなく(著作権法をはじめとする法律による規制対象にはなるだろうが)、写真を撮ることそのものを生業とする場合、試験も登録も不要だろう。

こうなると、競合ライバルとなる他の写真家等との差別化が苦しい。

私が好きなのは「自分の好きなものを撮ること」で、事業に不可欠な市場分析(他人の写真や需要を研究する等)、営業活動(顧客獲得のための広告宣伝等)に消極的。
好き勝手に撮った写真を売るには、高い認知度、稀少性、希望者が私の写真を購入できるシステムが必要だろうが、特に重要な前者2つが欠けているため、絶望的。

こうした認識を持ちながらもなお、私は必要な努力に時間や手間を割こうとは考えていないので、プロとしての適性は今のところ皆無といえる。

人生は矛盾だらけ

当記事の主題テーマに入ろう。
結論からいうと、カメラがないことで困る場面はなかった。

これは、日頃の主張「使わないものに金を払わない」と矛盾し、なんとなく居心地が悪い。けれど、困らなかったのだから仕方がない。

ただ、物足りなさは感じる。

空白に何か増えると煩わしいが、固定的なものがなくなった途端、手持無沙汰で寂しい。固定時期、占めていた割合と比例するように寂しさは高まる。

私は、カメラを使う使わないで所有しているのではなく、あることを「標準」として所有しているらしい。
どうやったって自分の主張(使わないものに金を払わない)と矛盾する。

苦し紛れの反論をするなら、デジイチは、所有のみでかかる金銭コストはないため、損はない。

しかし、所有していなければ取られなかった時間コストはかかる。
写真を撮る動作を「無駄」と定義するなら、結果的に損である。

これらを踏まえ、私にとってデジイチは、損得外の存在だと確信した。

今さらかと思うが、今さらでも気づいたのだから良いのである。

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