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スナップショット

『終写真活』

 デジタルになって以降の写真データを見ていると、スマートフォンに変えてから圧倒的に数が増えている。

 デジタルデータで5万枚くらいはあるのに気がついて、まず削除作業をかなりしたつもりだが、唖然とする。作品写真は必ず残しておかなければいけないので、撮影機器がどのような状態のものでも残しておく。
 ガジェットがどんどん賢くなる反面、こちらの老いた処理能力はついていけなくなるのだ。とほほ。

 PCでの整理作業が億劫になってきた私は、いっそのこと焼いて整理したらいいかなと思った。仕事に関係なく、普段パシャっと撮ったものを、1万枚くらいL版でプリントするには、10万円以上はかかりそうだ。手に入る大きさの紙の写真に家で少しプリントしてみた。
 染料インクなので耐久性はあまり期待できないが、画面で見ていたものと別物に化ける。何か指先でスクロールしていたもの、見過ごされていたものの細部が現れる。

 テーマ性もなく怠惰な日常を「写してしまった」画像の塊をプリントにすれば、一枚一枚は声高に何を主張することもなく、ましてや大仰な思惟や思想を表すものでもないのは一目瞭然。しかし、どこか引っかかるものがプリントの表面に現れる。それは何だろう。

 写真の重要な要素として見落としがちなことが、「写真は大衆文化」だということ。版画も同じように複製して大衆文化の必然性から発展している。写真は、娯楽でもあり、イベントの記録でもあるが、今や歴史上の名だたる写真も大衆によってスマフォの待ち受けにいともたやすく変化する。まして絵画はその比ではない。

 娯楽が持つ大衆文化の侵食はには優劣がない。そういう意味では、写真は平等に残酷であり、日々のささやかな楽しみの手中にもたらされた芸術になった。一方で良心の名の元に人々の好奇心の対象を炙り出すもの。純粋なものは何一つないということを、写真は一番私たちに教えてくれる媒体でもある。
 美しく芸術性に満ちた写真も、優れたドキュメンタリー写真も、一枚のプリントには変わりがない。そういった余計なことを考えながらも、つい道端の光を写してしまい、可愛い愛しいものををシューティングする。私のスナップショットはカメラの特性、「シューティング」の延長にある。

 相反する気持ちのもとで写真は常に過去を撮影するものだ。玉手箱から出てくる時間が経った時に、初めて現在との接点を持ち生き始め、写真は生身のものではないことが何より私を魅了する要素です。

 私の「スナップショット」展への思いを綴ってみました。

松井拝
追伸:この季節はとても饒舌になりますが、作品の元を文字に書いてしまいますので、長文にて失礼いたします。

©️松井智惠         2023年6月9日筆

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