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蟻と甲虫


 イソップ寓話に、「蟻と甲虫」という話がある。多くの人が思い出すことのできる「蟻とキリギリス」のの原型である。

 食物が豊富な夏に、他の生き物のように仕事をしなかった甲虫は、冬になると蓄えがなくなり、蟻におすそ分けを願いにいく。けれども蟻は、自分が仕事に精を出しているときに、甲虫に非難されたので、今度は逆に、甲虫が働かなかったので今困っているのだと皮肉をいう。

 そのところでこの話は終わっており、イソップは、「盛りあるときに、将来のことを考えよ」というもっともな生活訓を説く。しかし、原型を離れたこの手の話には、イソップの説くところよりも、「働かざるもの食うべからず」や「自業自得」といった考え方が結び付けられてしまっているように思う。勤勉な日本人は、特に蟻に肩入れしてこの寓話を読み取ってきたように私は思う。蟻自身は保証された勤勉さの美徳から、批判されることは決してなかったのである。

 蟻は小さな共同体を守り、共同体内部での幸福を追求する。かたや甲虫は、最初から共同体をもたない。甲虫に蟻と同様の労働力を求めるのは、最初から無理なことである。寓話の中では断ち切れたままの蟻と甲虫の関係も、現実では、そうはいかない。蟻になれない者も多くいる。また、蟻だった者も、いつまでもそのままではいられない。そんなに簡単に立場が別れたままということはあり得ないのだ。人の世に置き換えると、農耕文化とそれ以外の文化ということもできる。生き物である以上、人と昆虫の間で何が異なるのだろうか。否。

 現実は、寓話をたどることではない。異なる性質のものを対立させ、各々の関係性を閉ざしたままでお互いを批評しあうことは、何も生み出さない。必要なのは、甲虫を批評することではなく、甲虫の状況を受け入れ、寓話の続きを組み立ててゆくことなのではないだろうか。(現代美術作家)

©松井智惠

2022年6月5日改訂  1994年12月16日 讀賣新聞夕刊『潮音風声』掲載 

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