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家族というイメージ


 あるとき見かけた家族をテーマにした公共広告に写る一家の構成は、三世代家族だった。広告の家族構成は男性と女性が同数である。そしてどの世代も男性が女性よりも年齢がすこし上のようである。

 これがいわゆる一般性のある家族構成のイメージなんだろうか。もちろんこんな家庭もあるだろうが、実際の確率は低そうだ。そもそも家族のイメージを公のものとしてつくるなんて無謀なことだ。それをわざわざつくるって事は、現実ではすでに家族のイメージがひとつにくくることなんてできないことをよく表しているに過ぎない。

 法律上の家制度は四〇年以上前に廃止されてはいるが、実際には習慣としてあっちこっちの場面で存続している。一家の存続、一家の繁栄という旧家制度にまつわる感情は、あらゆる現実の場面できしみを起こすもとになっている。私の世代のように、兄弟姉妹の少ない場合では、長男長女を問わず、男女ともに必要以上のプレッシャーが常にかかっている。
 とりわけ結婚や跡継ぎ問題がおこると、現実からすこしずれた男性らしさや女性らしさのイメージを、男性女性ともに急に当てはめられ出す。通過儀礼だと言われればそれまでだが、現実は、そんな乱暴な手段で解決できるほど簡単ではないので精神のバランスを保つために懸命にならなければいけなくなる。

 家族のイメージはいろいろあっていいのではないか。家族制度のあいまいなイメージだけを残していこうとするのは勝手だが、無責任に振り回さないでほしいものだ。家という共同体が、かつての機能を失ったのを認めるところから始めること。それによって生まれた疎外にもう一度かたちを与えることのできるものがないかと私は真剣に考えている。

©松井智惠

2022年4月14日改訂 1994年8月5日 讀賣新聞夕刊『潮音風声』掲載

四半世紀前に「真剣に考えて」いたのですが、現在は老いる道中で生まれる人同士の関係は、また異なるものだと思うこの頃です。世の中は歪みが当時と異なる様子になりました。しかし、社会経済の中で生き延びていくために、男女の役割と性について悩むことは人としての永遠のテーマなのかもしれません。

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