見出し画像

「師走の会議」

 
 京都市立芸術大学の移転記念事業として、「芸術と社会・国際会議」が12月9日、10日の二日間にかけて、京都市京セラ美術館の講堂で催される。「表現の自由と倫理」という昨今浮上する事象について国内外、とりわけポーランドを故郷とする研究者による、専門分野の発表となる。
https://www.facebook.com/events/1232805474065512
 この講座に参加するならば、ポーランドの第二次大戦前後、あるいは中世以降の中欧の歴史における宗教、民族、地政学的な特徴の事前予習をした方が良さそうだ。

 「表現の自由」とは難しい問いである。作り手の私にとっては、「表現の自由」とは「表現の不自由」を含んでいる。不自由さも作り手には全てマイナスとは言えない。自由が充分に与えられている時とは違う切実な現れ方を持つことがあるからだ。たとえその作品が、圧力を受けて展示されなくなったり、苦情が来たとしても、そのことも含めての表現活動と割り切らなければ、作り手は続けることはできない。作り手は、あざとい手段を使っても、続ける方法を見つけようとするし、そこで鍛えられる。揺れる社会の中で表現し続けるには、直喩だけでなく、比喩や暗喩、賛成と反対を超える術を身につけなければいけない。アティテュードも重要である。

 今回の会議で注目すべきは「倫理と表現との関係」だ。このような題が表に顕れやすくなったことは、何に由来するのだろうかということを、タイピングしながら考えている。
 「倫理」この言葉をキリスト教の文化圏における芸術の中で捉えるか、仏教や儒教による影響を多大に受けた東アジアの文化圏の中で考えるか、表現ということを通じて、その両者が往来できる通路を見つける契機になるのではないかと、この会議の趣旨とは関係のないことをふと考えた。

 古くからある「宗教」が脆弱になり、代わりに芸術に救いを求める場面がよく見られるようになった。そこで、立ち返ってみなければならないことは、「倫理」が持つ意味とは何かということではなかろうか。

 「死」について語るときの主役は、神でも仏でもなく「生」の雑踏の中で呟かれる呻きさえも細々となり、今や「儀礼なき有神論」と、生物としての死生観は全く別のものとして考えられてはしまいか。生きているという事実よりも、生きがいに重きがあるような社会状況に私たちは追いやられていく。高齢社会も、子ども社会も、大人の居場所や思考の成熟場所を確保できずにきた結果だと思う。そしてそれは私たちの世代の責任とも言える。

 初めて会った人とは、政治と宗教を話題にしないのが、礼儀だ。
芸術の領域の中でそれを語らなければいけない時、作り手はただ日々の呟きの集積を語る正直さだけを、どこかに残しておきたい。


©️松井智惠               2023年11月30日 筆

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?