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音と声

 先週末から風邪をひいてしまった。熱はほとんどなし、食道は痛くもならないから、ご飯もいただくことができる。ただ顔の内側、身体が外気を入れて吐き出す管が全部炎症を起こしていた。コロナではなかったもののインフルエンザのような感染症だった。声帯と気管支の炎症で声が出ない。

 コロナが5類に入ってから、マスクもすっかり忘れ、雑踏から帰宅後のうがいも疎かに、暑くて乾燥した10月を無防備に過ごしたのが、原因かと思う。汗をかいて冷えてしまったり、薄着で自転車に乗ったりと、チグハグな毎日を過ごしていた。秋のイメージが頭に入るとつい、少し厚手のものを着たくなるし、色合いも変えたくなる。季節の変わり目に「ご自愛ください」と言うのは、形式的なものではないと最近つくづく感じる。

 最初はスーもハーも出なかった声帯を直すには、「話さず安静」かなと、秋の連休は休暇にして静かにしていた。そのうちに、ヒューヒューと息を吐く音と吸う音が聞こえるようになってきたが、まだ言葉にはならない。5日くらい経った頃、低いかすれた音のハミングができるようになった。母音や子音はまだまだ先のことだ。

 普通に話すと言うのは、複雑なこの身体の働きがうまく噛み合わないとできないことなのだなと、改めて知る。声帯の炎症が治っただけでも駄目だし、耳鼻喉口、気管支に肺も関係してくる。最近AIの音声でやりとりをすることが多くなった。宅配の集荷を頼むのに、つい電話をかけて「あっそうだこれは無理だな」と、チャットに変えた。高熱にならなかったのが幸いで、こうやってnoteを書いたり、パソコンの前で暇つぶしができて幸いなことである。

 コミュニケーションは、チャットを含めてもっぱら書き文字。お医者さんやお店の人と筆談をしているが、毎日書いた言葉の量は普段よりも多く、饒舌になっている。どこかバランスをとっているのかなとも思う。そんな時にカンヴァス に向かって吐露するように絵がかけるのかなと、思えども、それはなかなかできないことである。頭の中では、モヤモヤっとしたイメージが出てくるが、言葉のない状態で絵を描くことにまだ慣れていない。これが続けばその時には何か違うものができるかもしれない。言葉に限らず、身体が普段発している音に敏感になった数日間、映画を見る気がしなかったのはなぜだろう。久しぶりに本に手が伸びる。文字そのものを読んでも声に出すことはできないが、自分に読み聞かせるように、音に置き換えて時間をすごしていたのかもしれない。

 だいぶ良くなってきたので、またぞろどうしても見たい配信ドラマの設定にアプリを入れたり、それぞれの設定をして3時間もかかってしまった。ああでもない、こうでもないと、まっとうでないエラーに対応していくと、どんどん脱線していく。なんでも自動でやってくれる昨今、セキュリティも含めて自動任せ以外のことになると、急にある程度の知識が必要になる。

 保護されるべき個人の情報とは、一体何を指すのだろう。
アカウントを作る以上、自分で流していることになる。年齢性別などいらないのになと思うことが多々ある。個人情報の保護とこうやって、病の愚痴話を書くことによる自己表出は、繋がっている。ネットでは、フィクションの世界を作り出すことができる。複数のキャラクターの自己像をこの場で表してみることも可能だ。

ネットは娯楽のツールとして遊ぶことが一番楽しい。自分が全く興味のないところを読んでみたら、思わぬヒントが転がっている。小石の形や色がキラキラと光っていることもあるのだ。自分好みの広告設定などは、私には不必要だ。

さて、これを書いてから、ググったサイトにのど飴の広告が出てくるかどうか、ちょっと楽しみである。

©️松井智惠                2023年11月10日 筆





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