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猫の話

 その猫は五年前の夏にわが家のベランダにやってきた。居着くのがわかっていながら、私はつい食べ物を与えてしまった。二、三日姿を見ないなと思っていたある日、外から帰ってみると、ガラス戸の上の空気抜きの小さな小さな窓から部屋へ入り込んだらしく、部屋の隅にちょこんとすわっていた。

 猫にしてみれば、空腹を満たしたい一心だったのだろう。だが私は、そこまでするんだったらここで暮らせばいいよと思ってしまった。これはまったく猫の思うつぼだったのかもしれない。

 普通猫の目はすこしつり上がっており、それがなまめかしかったりするのだが、この猫の目はたれていた。おまけに鼻がとても短く、やせているのに顔が真ん丸である。とりえと言えばしっぽがすんなりして、トラ柄の毛の色がきれいなことだった。 子猫のような声でなくし、体も小さいので二、三歳かなと勝手に思い、それなら憧れていたデブ猫に育てようと楽しみにして、動物病院に検診に連れて行った。ところが獣医さんは「これは結構齢言ってますよ。10年はいってるでしょう。歯を見てご覧なさい。」と言う。
 歯は真っ黄色で、とても臭かった。「若い猫はね、歯が白くて、もっときれいですよ。それにしてもこんな変な顔の猫、初めて見るなぁ。」とさらに追い打ちをかけられた。

 そうしてこの猫は、変な顔で可愛い老猫としてみんなに愛でられるようになった。この五年間は年老いた人間と一緒で、ずっと病気との闘いだった。でもその間に若いガールフレンドをわが家に連れて帰り、楽しそうなことまでしていた。

 去る九月一五日の敬老の日に五年間一緒に暮らしていたその猫は息を引き取った。 


 ©松井智惠
 2022年4月10日改訂  1994年9月30日 讀賣新聞夕刊『潮音風声』掲載

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