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唄う人魚

古びた缶詰の蓋を開けると、魚のぶつ切りと一緒に小さな美しい人魚が入っていた。

私は急いで風呂場に連れて行き、鱗に傷がつかないように慎重に身体を綺麗にしてやり、浴槽の水を海と同じ塩分濃度に調節した。

しばらく様子を眺めていると人魚は少しずつ息を吹き返し始めた。その晩はずっと隣で過ごした。

その頃の私といえば、立て続けに嫌なことが起こっていたものだからひどく心は疲弊していた。だから浴槽の人魚に弱音をぽつりとこぼしたことがあった。

すると、人魚は唄ってくれた。

かなしいような、懐かしいような、母のやさしさを思い出すような不思議な歌を。

歌が終わると私の目頭には群青色の水滴があった。

その後も同様のことが幾度も続いた。

翌る日ついに私はやるせなさに打ちひしがれて崩れ落ちた。もう二度と立ち上がることは叶わないほどに。

そんな私を慮って彼女は唄い出した。

いつもよりも大きく、かなしい声で。

彼女の歌はいつまで経っても終わらなかった。

私の目からは群青色の水滴がどんどん溢れて激しい流れになりそれは波へと変貌するのだった。それに伴い私の身体はどんどん小さく縮んでいった。

群青色の水滴が部屋を満たして海になる頃、私の身体は彼女と同じ大きさになっていた。そして、彼女の歌はいつの間にか止んでいた。

私の傍らに彼女が泳いで近付いてくる。

それから彼女は私を抱き寄せて部屋の中の深海の深く深くへ連れ去って行った。

私は二度と地上へは戻らなかった。

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