感想:映画『めがね』 心地よい消費主義

【製作:日本 2007年公開】

「携帯電話の電波が届かない場所に行きたい」と思い、離島にやって来たタエコ。
島の旅館・ハマダで出会う人々は独特のペースでコミュニケーションや行動を行い、タエコは当初居心地の悪さを感じる。
しかし、ハマダを去って訪ねた別の宿のスタイルはタエコにとってさらに受け入れ難いものだった。このことをきっかけに、時間やルールにとらわれない「ハマダ」の人々の姿勢に安堵を覚えるようになったタエコは、島での暮らしに馴染んでいく。

本作は都会が象徴する成果主義などの忙しない価値観やテクノロジーから離れ、自然の中で自己を解放する時間の重要性を描く作品である。
この映画において理想とされるライフスタイルでは、人間に緊張をもたらす資本主義的価値観は避けられるものの、人工物や「商品」そのものは否定されず、自分の過ごしやすいようにそれらを選び、生活をカスタマイズすることが志向される。
これは作品のタイトルである「めがね」にも表れている。

この作品の主要登場人物は全員が眼鏡をかけている。普段は島外で暮らすタエコ・サクラ・ヨモギ、島の住人でありながらも仕事をはじめとした日々の暮らしに生きづらさを感じ、サクラや「ハマダ」に休息を求めるハルナの描写から、眼鏡は社会と自分を隔てる防御壁としての機能を持っているといえる。
終盤に島を出るタエコが眼鏡を落とすことは彼女が社会に戻ることを意味し、その眼鏡が後にユージによって釣り上げられることは、彼女が再び島に帰ってくることを示唆する。

眼鏡は「この人物は目の前の世界をある特定の方法で捉え、楽しむことができる」証としての役割も持つ。タエコはユージの描いた感覚的・抽象的な地図を理解したことで、「ここにいる才能がある」と言われる。
「ハマダ」のメンバーは「たそがれる」のが得意という特徴を持ち、眼前に広がる海を見ながら物思いに耽ったり、何時間も大らかに釣りをすることを好む。目の前の物事に追われる忙しない状況を離れ、過去の出来事や自分の考えを顧みることで自分を受け入れ、社会で蓄積したダメージから回復するというプロセスをとる。

ここで重要なのは、彼らが自然に親しむことは、反資本主義・反工業化といった文脈とは異なることだ。彼らは現代のシステムに基盤を置きつつも、それに疲れた際の束の間の休息の場として自然に触れる。
島にあるもうひとつの宿「マリンパレス」は、畑を併設しており、宿泊者は自ら土地を耕して野菜をつくり、自然に関する勉強会を行う。
彼らはストイックに自然と向き合い、積極的にコミットするが、タエコはそうした姿勢には拒否反応を示し、自然とほどほどの距離感を保つ「ハマダ」に戻る。

眼鏡が落ちた視力を人工的に補強するものであるように、本作は「人間が自然を左右すること」を否定しない。
肉や魚を食べ、ビールを飲み、編み物や自転車の修理、料理など、自分の手で何かをつくることを重視する。また、古い氷削機やタエコ達の服装など、製品へのフェティッシュ的なまなざしもある。
また、タエコ・サクラ・ヨモギについては島外での生活があることが前提とされており、島や「ハマダ」はあくまで「充電を行う場所」として位置づけられる。

本作では物々交換など、貨幣を介さないやり取りもみられ、それらは利害や駆け引きから解放された人間関係を象徴する。
サクラが提供するかき氷(ノスタルジーが伴う食べ物)を食べ、子どもに混ざって体操し、自由に好きなように時間を使い、ルールに縛られない行動をとる彼らは、童心に返っているようにみえる。
本作では携帯電話が使えないほかにテレビやラジオも登場せず、タエコの行動を見ると読書も避けられている。文字情報や思想に染まらず、二足歩行で指先と火と言葉を用いることのできる動物としてのヒトの機能に焦点を当てているとも感じた(ハルナが生物教師であり、時折生物や命に関する話題が出るのも、他の動物とヒトを相対化する意図があるのではないかと思う)

本作の登場人物のように、現代のシステムそのものに批判や不満はないものの、それに無性に疲れて自然を求め、バランスを取る姿勢は、多くの人にとって普遍的なものだと思う。
しかし、意思表示や社会運動がポピュラーな行動となり、とりわけ環境保護活動のムーブメントが高まる2010年代を経てこの作品を観ると、良くも悪くも人間中心的・日和見的と感じる。批判を伴わない「心地よい消費主義」はあまり誠実なものとは思えなかった。

固定カメラやロングショット・長回しを多用し、自然の美しさを捉えた上で、情緒を抑えて登場人物の姿を淡々と追う撮影技法やBGMは印象的だった。また、上述したようにモノへの造詣が深い作品であり、シンプル・レトロなイメージを基調とした小物は見応えがあった。

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