感想:映画『おとぎ話を忘れたくて』 あらゆる「おとぎ話」をストイックに否定する
【製作:アメリカ合衆国 2018年公開 Netflixオリジナル作品】
広告代理店で働くヴァイオレットは、自身のルックス、とりわけ髪のケアに余念のない女性。
アフリカ系の彼女は、幼い頃から、縮毛を矯正し、品良くフェミニンに振る舞い、高収入の男性をパートナーとするよう教えられ、その通りに育った。しかし、パートナーの医者クリントから、「完璧すぎて息苦しい」という理由で結婚に消極的であると伝えられる。
アイデンティティを否定されたと感じ、自暴自棄になったヴァイオレットは、クリントと別れ、長年ケアしていた髪を染める、剃るなどの行動に出る。
そして、一連の出来事の中で出会った町の美容室のオーナー・ウィルやその娘ゾーイとの交流を通して、彼女は自分が囚われていた保守的な価値観と向き合うようになる。
本作は、コンサバティブな、いわゆる「赤文字系」女性が、社会的な規範に則らない新たな自己像を獲得するまでを描く作品である。
ヴァイオレットならびに彼女の母ポーレットが「赤文字系」である背景には、アフリカ系への差別的なまなざしや、アフリカ系の内部に存在する階層構造が存在し、女性に対するスティグマも描かれる。
アフリカ系に表れやすい遺伝的な形質として、縮毛がある。この形質には差別的なまなざしが向けられ、白人中心の文化においては、コマーシャルなどで癖毛を矯正することが美徳という価値観が再生産されてきた(『ヘアスプレー』)。
作品冒頭のヴァイオレットは、日々念入りにストレートヘアをつくる。母ポーレットの教育の通り、人前で髪の毛を濡らして癖があらわにならないよう、細心の注意を払う。
特に20世紀前半の米国の白人の間では、スタイリングによって固定した髪型が理想的なヘアスタイルとされた。これは、自在に伸び、風に靡き、制御されない髪の毛が、非理性的なものや手に負えないものを象徴し、秩序を重んじる価値観と相容れなかったからである。こうした考え方は女性に対する抑圧ともリンクする。
その後、都市部では頭の形に沿った自然な毛流れや染髪が人気を博したが、地方を中心に「抑制された髪型」は支持を集め続けた(『マグノリアの花たち』)。
このように、縮毛への嫌悪は保守的な価値観と関連が深い。
実際に、ポーレットとヴァイオレットのコンサバティズムの背景には、アフリカ系への差別や社会的な立場の弱さがある。
彼女達は白人エリート層に倣ったライフプランを実行することで、人種による社会構造の不均衡の中で勝ち上がろうとする。社会的なステータスや稼ぎの十分な男性と結婚して子どもを産み、社交を行うことを幸せと定義するのだ。
物語序盤までのヴァイオレットはこの道を着実に歩んできた。
ところが、彼女は「完璧すぎて気が抜けない」という理由で結婚を保留される。ヴァイオレットにとって、これは自分が目指す模範的な姿を巧く実現していることそのものを否定されたことに等しく、彼女はアイデンティティを見失って苦しむことになる。
ヴァイオレットは髪型を大胆に変えることで、新たな自己像を獲得しようともがく。
ここで印象的なのはヴァイオレットが自分のヘアスタイルに情緒や人物像を大きく左右されていることで、彼女が自己を構築する上でいかに髪の毛に重点を置いてきたかがよくわかる。
本来の自分を抑圧してきた人物がアイデンティティを再構築する際に「自分を取り戻す」という表現が用いられることがあるが、ヴァイオレットについては幼い頃から保守的であるように育てられてきたので、「取り戻す自分」がない状態である。
金髪に染めればステレオタイプな「性的に奔放な女性」となり、剃髪直後は自分に存在価値を認められず、消極性やみじめな気持ちが態度に表れる。この素直さは誇張されてはいるものの、ヘアスタイルの持つ力と、肯定できる自己像を手に入れることがいかに切実なテーマであるかを強調する。
ただし、装うことの重要性を認めつつも、外見のステレオタイプに囚われすぎることは批判される(癌で髪や乳房を失った人々のセラピーをヴァイオレットが訪れるシーン。彼女達は、外見と内面/女性性を結びつける価値観に苦しむ存在である)
物語の展開はヴァイオレットに対してシビアで、彼女が求めていた「おとぎ話」にも、比較的リベラルな女性が肩の力を抜いて付き合えるパートナーに出会うロマンティック・コメディにも着地しない。
本作はヴァイオレットに、どんな形であれ伝統的な女性の役割に落ち着くことを許さない。
彼女は美容師ウィルを新たなボーイフレンドとし、彼の娘ゾーイの「母親代わり」を担うことに自らの役割を見出そうとする。
しかし、ブルーカラーを差別するポーレットの主催するパーティーにウィルを連れて行ったことで
、「正規の手順」を踏んで家族になる、という理想像に未練があることを指摘され、「リベラルな妻・継母になる」という道は閉ざされる(プリンセスが継母になる点が革新的だったディズニー『魔法にかけられて』の構造を否定するものでもある)
その後、自分の弱みを曝け出せるようになったヴァイオレットは、クリントとよりを戻し、婚約に至る。
ここでもロマンティック・コメディ的な展開が想像されるが、婚約披露パーティーにあたり、彼はヴァイオレットに縮毛をセットするよう頼む。このことで彼女は失望し、婚約を破棄する。
「一定のレールを外れない範囲でのびのびしていて欲しい」というクリントの姿勢には現実味があり、実際にどんな人間も他人にそのような条件付けを行っている。
それを擦り合わせていくのがコミュニケーションなのだが、「相手に一定の範囲で自由を与える家父長制」は結局のところ家父長制を克服していない、というのも確かだ。
本作は妥協や対話の積み重ねによって成り立つリアルな人間関係よりも、人間関係に投影される構図を重視しており、ポーレットが満足する結果で終わってはいけないという物語上のテーマもあって、「制限付きの自由」は真っ向から否定される。
本作のラストシーンで、ヴァイオレットは誰とも恋愛関係にならず、男尊女卑傾向の根強い広告代理店も退職し、フリーランスでオーガニックヘアケア商品のセールスを行う。この商品はウィルがプロデュースしたものだが、ふたりはあくまでビジネスパートナーであり、作中ではプライベートな関係が深まることはない。
伝統的な「女性の幸福」に傾倒しないという点で徹底した作品だった。保守性を批判しながらもロマンティックラブイデオロギーやソフトな家父長制に基づいた「ハッピーエンド」に収束するロマンティックコメディが多い中では新鮮だと感じた(こういう作品ばかりだとそれはそれで息苦しいとも思うが……)
ヴァイオレット役のサナ・レイサンの演技が印象的で、特に髪を剃るシーンと、クリントに失望してプールに飛び込み泳ぐシーンの、投げやりさを含んだ笑い泣きの表情や動きには鬼気迫るものがあった。一度構築した自己像や信じていた幸福の在り方を捨てることがどれほど難しいかを示す働きもあったと思う。
また、自在に伸びる髪の毛が周りの人間を絡め取っていくオープニングアニメーションは、固められていない髪の毛に投影される無秩序性やエネルギーの大きさを象徴していて面白かった。
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