感想:映画『ガーンジー島の読書会の秘密』 作家と「登場人物」が出会うとき

【製作:イギリス・フランス 2018年公開(日本公開:2019年)】

1946年、イギリス・ロンドンで暮らす気鋭の作家・ジュリエットのもとに、彼女が所有していた書籍を偶然手にしたガーンジー島の養豚農家・ドーシーからの手紙が届く。
第二次世界大戦中、ドイツ第三帝国の占領下にあったこの島では、住民が隠し持っていた豚肉や酒を楽しむ集まりを誤魔化すために「読書会」がつくられた。カモフラージュとして発足した読書会だったが、活動は盛り上がり、彼らは苦しい状況の中、文学に救われたという。
そのエピソードに感銘を受けたジュリエットは、雑誌記事の取材をするべく、昔馴染みの編集者シドニーと、米国の軍人である婚約者マークを残してガーンジー島に旅立つ。
しかし、読書会のメンバーは自分達を題材に記事を書かれることを拒む。会の中心人物だったエリザベスが島にいないことをはじめ、手紙からは窺い知れない事情があると知ったジュリエットは、取材をとりやめる。そして、「戦争はまだ終わっていない」と語る島の人々とコミュニケーションを取り、彼らの中でわだかまるものを解きほぐそうとする。

本作は、現実を「物語」として語ることに関する倫理的な問題に触れつつ、コミュニティの外の人間が取材し記述することの意義も示す作品である。
加えて、様々な人間関係・人生の在り方の肯定、文学を読んで語り合うことの意義、戦後の米国と英語の違いなど、様々なテーマが取り上げられている。

現実の出来事や問題の取材にあたっては、取材する側/される側の間に権力勾配が発生しやすい。
序盤では、主人公ジュリエットと、ガーンジー島の住民の生活水準の違いが強調される。
作家としての成功に加え、米国の軍人と親しいジュリエットは、戦後の明るいムードを十分に享受する立場にいる。富裕層の読者を相手に講演会を行い、毎晩のように開かれるパーティーに新しいドレスを着て出席する暮らしは華やかなものだ。
一方で、ガーンジー島の人々の生活は占領から解かれた後も慎ましく、建物の再建や活気のある市場など、明るい描写もあるものの、多くの人間は戦時中と同じ装いで生きている。(本作の登場人物で最も貧しいドーシーは穴の空いたセーターをそのまま着ている)
両者は当初まったく別の世界に生きている。最初の読書会で、ジュリエットが「作家の先生」として歓待されながらも線を引かれるのはその表れであり、彼女自身も来島時点では住民と読書会のエピソードを美談として「鑑賞」「消費」するまなざしを持っていた。

その後、記事掲載をやめたジュリエットは、動きやすい服装を身にまとい、島の住民と日々の生活をともにし、「外部から取材に来た作家」としてではなく、ひとりの人間として住民と関わるよう努める。彼女の誠実な態度に、住民も次第に心を開き、読書会から始まった人間関係の変容や島で起こった出来事の顛末を打ち明ける。
一方で、ジュリエットは彼らの話や新聞記事から集めた情報をノートやメモにとり続ける。
最終的に、彼女は社会に公表しない、住民達のためだけの読書会の物語を書き、彼らに贈る。

ここではジュリエットがコミュニティ外の人間としての客観性を持つことと、彼女がコミュニティに真摯にコミットしたことの両方が機能している。戦後の時代の流れの中で、出来事を言語化し残すことは、彼らの時代を記憶に留めた上で、出来事に区切りをつけて時間を前に進める役割を持つ。
通俗的な作風に違和感を持ち、作家としてスランプに陥っていたジュリエットが、非商業的な文章を書くことで意欲を取り戻す展開も興味深かった。
彼女は作家としての自己を肯定される環境であるガーンジー島で、自分の技術を最大限に活かす。
ジュリエットが「自分の力で飛ぶ」ことを重視する人物であることも作中では示唆される(父の形見のクリスタル/パーティーの風船/ロンドンに戻る際の飛行機)
物質的には惜しみなく愛を与えながらも、読書をせず、ジュリエットの精神的な部分の理解が不足しているマークよりも、彼女の仕事を尊敬するドーシーが選ばれる理由もここにあると思う。

ジュリエットの身辺や島の描写を通して、多様な人間関係の在り方を示す作品でもある。
戦時中のガーンジー島では、ドイツ軍・島民・奴隷労働者の3つの階層が存在していた。
しかし、搾取・支配構造の中にあっても、近しい距離で生きていればそこには関係が発生する。
ドイツ兵のひとりクリスチャンとドーシーの友情と、クリスチャンとエリザベスが恋愛関係になり、子どもをもうけることがその表れだ。
彼らは組織としてのドイツ軍に抑圧されながらも、軍を構成する個人をひとりの人間として捉えるまなざしを持つ。
特にエリザベスはそれが顕著で、ドイツ軍の行進に食ってかかり、虐げられる奴隷の少年を助けようとして逮捕されたのち、収容所で小さな女の子を庇って射殺される強硬な姿勢を持ちながら、ドイツ兵をパートナーに選ぶ。この行動はポリティカルな一貫性に欠けるが、裏を返せば彼女は他人を立場で判断せず、自分の目で見たものを常に信じていたともいえるだろう。
読書会メンバーの年齢構成や、エリザベスとアメリアの血縁に依らない親子関係、エリザベスに託された子どもキットの養父を務めるドーシーなど、家族の形も多様だ。
また、ジュリエットと盟友シドニーとの関係も印象的だった。シドニーは彼女と長年の付き合いであり、仕事のマネージメントに加えて戦時中やスランプ時はメンターの役割を担う。
マークやドーシー以上にジュリエットの考えや性格を理解し、陰に日向に彼女を支える存在だが、シドニーはゲイであるため、ふたりのパートナーシップに性愛は介在しない。
マークやドーシーとのロマンスは本作のプロットの核にあるが、シドニーとの関係はこれらの恋愛に勝るとも劣らない価値あるものとして描かれる。性愛とは異なる男女の前向きな関係を描く点でも、本作は意義があると感じた。

個人的にはジュリエットの相手役であるドーシーが大変好きだった。
彼は戦時下において、身体的なハンディのために徴兵されず、占領の影響で生業も奪われ、「男らしさ」の価値基準にはまることのできない存在である。さらに恋愛も実らず、生死の境にいる想い人エリザベスを止めることができず、彼女に託されたキットを貧しい中ひとりで育てているという、稀に見る苦労人だ。
その中で腐らずに読書に救いを見出し、キットに真摯に向き合うところが尊敬できたし、ジュリエットが彼を選んだクライマックスでは「本当に良かったね……」と思った。(物語に同封されたジュリエットからの手紙を黙々と読んでしまい、エベンに音読するよう注意されるシーンと、ジュリエットから彼にプロポーズするシーンが特に良かった)

なお、イギリス映画あるあるの「米国人腐し」が本作にも含まれており、マークはステレオタイプな「物質主義的でウィットに欠ける」人物像である。
同じ戦勝国でも、英国と米国では戦後の経済的な様相が大きく異なり、配給制の続く英国とカラフルなモノに満ちた米国の対比は『チャーリング・クロス街84番地』などでも描かれている。
このため、米国の心機一転ぶりに英国の住民がついていけない、という構図は理解できるものの、前掲作が米国人と英国人を互いにリスペクトしあう存在として描いたように、本作でももう少し典型によらない表現ができないものかと思った。多様な人間関係を提示する作品だからこそ残念だった点でもある。

なお、本作の物語において読書会は「きっかけ」であり、プロットの大半は読書から逸れているが、それをフォローするようにエンドロールでエピローグ後の読書会の音声が使われ、文学がいかに世代を超えて人をつなぐかを示しており、隅々まで丁寧に描こうとしている印象を受けた。

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