感想:映画『セックスと嘘とビデオテープ』 撮影と支配の関係

【製作:アメリカ合衆国 1989年公開】

結婚して間もない夫婦であるアンとジョン。アンは家で過ごす生活の中で不安感や憂鬱を抱えてセラピーを受けており、ジョンはアンの妹シンシアとセックスに耽ることを密かな楽しみにしていた。
そんな折、ジョンの旧友であるグラハムが夫婦を訪ねてくる。自分と同じく内向的な彼に親近感を覚えるアンだったが、彼にはある習慣があった。
それは、様々な女性に性生活や性嗜好について訊ね、その模様をビデオテープに録画・鑑賞すること。
グラハムと、彼のビデオ録画という行為は、膠着状態にあった人間関係に変化をもたらす。

本作は性行為や、それに関する人間の心理に焦点を当てた作品であり、「対象の所有・支配」をテーマのひとつとする。
婚姻とセックスを軸にしたアン・シンシア・ジョンの関係と、それらに影響を与えるグラハムのビデオテープは、いずれも「所有・支配」と密接に関係する。

ジョンはパートナーとして見定めた女性に対する所有・支配欲が非常に強い。配偶者アンを退職させていることに加え、肉体関係にあるシンシアにもバーテンダーの仕事を辞めるよう持ちかける。他の男性との接触機会を減らしたいという理由は、彼の支配欲を裏付けるものだ。
スキンシップに極めて積極的でもあり、セックスを好むシンシアと頻繁に密会するほか、あまり性行為に乗り気でないアンに対しても、同じベッドで抱きついて眠るなど、彼が物理的な所有・支配を志向することが示される。

一方、グラハムはインポテンツであり、ジョンのように物理的な所有・支配は行わない。しかし、彼は前述のビデオ撮影を通して、女性を断片的に所有しているといえる。
彼のビデオカメラは男性器の暗喩であり、撮影は肉体的な接触を伴わない性行為である。さらに、この撮影は対象の女性達とグラハムのコミュニケーションの上に成り立つものであり、彼女達は多少なりとも心を許している。自分の性経験や性嗜好を言語化して他者に伝える行為は自己開示の性格が強く、グラハムは彼女達の精神の一部を獲得としているとも捉えられる。
ジョンはアンとシンシアがグラハムの撮影に応じたことに大きなショックを受けるが、これは彼がふたりを物理的に所有しながら精神面を手に入れられていないことの裏返しでもある。

また、一連の撮影行為が支配的な性格を持つからこそ、アンがビデオカメラをグラハムに向けて自己開示を迫るシーンで支配-被支配の関係が転倒し、ふたりに起こる変化が際立つといえる。この出来事のあと、アンはジョンと離婚して仕事に就くことで支配される状況を脱し、グラハムは過去の失恋のトラウマと向き合ってビデオテープを廃棄することで支配をやめる。

ジョンがキャリア志向の強い会社員であることも 相まって、本作はToxic Masculinity(いわゆる"有害な男らしさ")を取り上げた作品であるともいえる。
(グラハムが他者にビデオテープを見せておらず、女性も同意しているとはいえ、撮影行為そのものの暴力性は否定しきれず、「内向的な撮影者」に甘いところがあるとは思うが)

険悪だったアンとシンシアの関係が、それぞれのジョンとの別れによって好転しているのも印象的だった。アンはシンシアの奔放さや外向性にコンプレックスを持って敬遠し、シンシアはアンの受動性や「清楚」「貞淑」であることが疎ましかったのだと思われるが、アンが性や仕事への主体性を取り戻し、同時にそれぞれがコンプレックスの原因であるジョンの姿勢を拒絶したため、互いの差異を肯定的にみられるようになったのではと思う。
なお、シンシアは植物好きで、自室に多くの鉢植えを飾っている。ジョンが自分の陰部の上に鉢植えを置いてシンシアを迎えるなど、ここでは植物は性的な豊かさを象徴するものだといえる。最後にアンがシンシアに鉢植えを贈るのは、アンが自他の「性」を肯定できるようになったことを示しているように感じた。

アンの服の色の推移(白や淡い色→赤→黒)や、登場人物の服の色の対比なども鮮やかだったが、服の色から人間関係や物語を読み解く行為を風刺するような描写もあった(シンシアが働くバーの常連男性の台詞)

また、ざらついた質感の画面も特徴で、ベッドシーンの多い本作において、ウェットなシチュエーションをクールに捉える効果があったのではと思う。
大きなテーマである不安や恐怖などを制御できないことや性への渇望と、アンディ・マグダウェルのボリュームあるカールヘアがリンクしているようにも感じた。
全体を通して、抑制された映像が、捉えようのないものと向き合う物語とうまくバランスをとっている印象のある作品だった。

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