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一元論の視点をもって、二元論の世界で生きていく

数年前、カナルタという文化人類学的ドキュメンタリー映画を友人と観に行った。

南米のシャーマンと共に生活し、彼らの生活をドキュメンタリーとして映画にまとめた「観る」文化人類学作品だ。

その作品の最後で、シャーマンがアヤワスカを飲んで吐き、苦しみむ場面が写されていた。(真っ暗闇だったので声しか聞こえず、姿は見えなかった(

その描写を見た私の友人は、「なんでそんなことをするのか分からない。びっくりした」と言っていた。彼女にとって、それはかなりショッキングで、理解不能なことだったらしい。

あれだけ吐いてしまうなんて、アヤワスカは身体に悪いものだよね?と。

シャーマニックな世界をゆるく探究している私は、「そんなことはないよ」と伝えた。アヤワスカは、幻覚作用もある。でも、それは自分の身体の内にある物質的・エネルギー的不純物を吐くことでデトックスし、自分自身をクリアリングしているものであって、とても神聖なリチュアルなのだと。

でも、確かに一般論で見れば、アヤワスカや、カンボやラペなどの嗅ぎタバコは理解できない、 “ドラッグ”として認識されるのだろう。


結局、なにが悪であって、なにが善なのかは、その人の文化的背景や生まれ育った環境、どんな色眼鏡で世界を見ているかによって簡単に反転するのだ。

それは、私自身が自分の人生の中で何度も実体験を通して経験してきたことでもある。


本来の古神道においての “悟り”とは、「差」を「取る」ことなのだそうだ。急遽の悟りとは、善も悪も融解し、二元論の世界から抜け出していく。すべてがただそこに在る現象して現れ出てくる。そこにジャッジも判断もなくなっていく。

私自身、「生きる」ということについての深掘りは続いているし、迷いも葛藤も抱いている。結論は、まだ出ない。出ないなりに、自分の肉体の声と向き合い、自然の中に身を置いて、声なき声たちに耳を澄ませることを続けている。

わからない。
分からないからこそ、問い続ける。


私にとって、世界は難解だ。
そして、とてもシンプルでもある。
「知りたい」「理解したい」
結局、ただ、それだけなのかもしれない、
ただそれだけのシンプルな探求のために、上も下も、右も左も、体験しているのかもしれない。

そんな、私の脳内の、ほんの一部。
探求は、まだまだ続きそうだ。



この記事は、過去に書いた以下の記事から一部を抜粋し、少し修正・加筆したものになっています。興味のある方は、元記事も読んでみてください。


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