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落合陽一氏と宮台真司氏の対談を見て感じたこと

日テレ24で落合陽一氏と宮台真司氏の対談番組が無料公開されていて見たところ、面白かったので要約と感想を書く。


ーー要約ーー

(注:著者の編集している内容であり、文言は一部変更しております。正確な内容を把握したい方は全編御覧ください)

昭和の時代には「目を合わせる」ことが頻繁に起こっていた。

「目を合わせる」というのは他者という得体の知れないものの存在とエンカウンターする機会、能動と受動の感覚が曖昧になり、「中動」の状態になる機会であり、我々人類のゲノムに自然な行為として組み込まれている。この「目を合わせる」行為は偶発性を誘発させる性質を持ち合わせており、これを享楽として受け入れることこそが人間らしさである。

しかし、平成の初期から「目を合わせる」ことが減り、現代人は必至で視線をさけるようになった。

これは感情の劣化として捉えられ、フィジカルな他人への興味がなくなることにより、性的な退却(性的対象としての他者への欲望の減退)が起きている。宮台氏はこの感情の劣化をテクノロジーにより食い止めることがメディアアーティストである落合氏に期待されるという。

仮にこの「目を合わせる」行為を出来なくなった人間は「人間らしさ」を失っているのであり、それはAIと代替が効くものである。今後、ゲノム技術やAIが発展すると、人間化したAIや動物やAIに劣る人間がたくさん出てくる。すると、人間とその他を切断してもしょうがなく、人間以外の哺乳類に恋愛対象となっていくだろう。ポストヒューマニズムの時代にはこうした流れになる。

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確かに日本では街中で人と目を合わせる機会は減ったなあと思う。学校や職場以外での地域でのコミュニティが瓦解している。

ただ、私は現在生活しているエジプトでは、日本が平成に経験した感情の劣化が存在していないようだ。街中で少し道に迷っている素振りを見せるとすぐ誰かが話しかけてきて「どこに行きたい」、「お前、どこから来た」などと質問してくる。(「よー、中国人」などと言ってくる人もいて必ずしも嬉しいものではない。)

こうしたコミュニティの瓦解というものはよく言われるものだが、これはエジプトでは全く起きていないように感じるということはやはり日本独特の文化に由来するものなのだろう。

一つの仮定として考えられるのは、日本には「普通」とされる価値観があり、その「普通」の価値観と異なるものを持つ自分の存在を他者に見られてしまうことに対する恥の感覚を持っているのではないかというものだ。

本来、人間は多様な価値観を持つのだから、「普通」という一つの価値観を押し付けられるとその基準からは異なる部分が生じるのは当然のことであり、それを恥として捉えられなければならないなら、そんなに悲しいことはない。

時に偶発的な他者の多様な価値観・パースペクティブとエンカウンターする機会を楽しみながら生きたいと思う。






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